Scribble at 2026-07-23 14:33:43 Last modified: unmodified
僕も、自宅や実家に合わせて5,000冊ていどの蔵書があるから、その処分について考えることはある。というか、いまでも買い足しつつ、やはり可能な限り目を通して古本屋に引き取ってもらうことが望ましいと思っている。理想としては、あくまで生きていればの話だが、70歳くらいまでに大半の蔵書に目を通すか古本屋に売って、辞書や聖書、それから何冊かの古典や愛読書(たぶん『やちまた』などは残る)だけを残して全てを処分したい。こういうのは語弊があるかもしれないが、それらの中に科学哲学の研究書なんて、たぶん一冊も残らないと思う。いや、それどころかプラトンの『国家』や KdrV や『哲学探究』すら残らないに違いない。なぜなら、僕は哲学の研究者ではなく哲学者なので、最後の最後はどういう本に何が書いてあるかはどうでもいいことだからだ。自分の入る棺桶に哲学書、いやそもそも本なんて入れてもらうつもりは全くないね。
なので、僕はいわゆる「愛書家」ではない。自宅に膨大な蔵書があることを喜びとするわけでもないし、膨大な数の本が周りにあることでしか自らの無知や限界を理解したり想像できないほど、脆弱な知性の持ち主でもないからだ(こういうことを理由に、いわゆる積読にも意味があると言う人もいるようだが)。よって、本がたくさんあろうとなかろうと僕には何の変りもない。手元に『論理哲学論考』がないから何も考えたり語れないなんて人間に、そもそも哲学する資格はないであろう。哲学とは、誰かの本に何が書いてあるかを正確に覚えたり他人に語って見せるような大道芸ではあるまい。
ということで、主旨は分かりにくいかもしれないが、趣旨としては分かると思うので、なんとなく予想できるかもしれないが、僕は荒俣氏の談話には全く同情しない。産廃として扱われるのが嫌なら、僕らよりも遥かに活用できる出版業界のコネやパブリシティを使って、蔵書を無償で提供することを申し出てファンや同業者に配るイベントなんて幾らでも実施できたはずだ。いや、そのていどのアイデアを考えもしなかった筈はないから、何らかの事情でこっそりと処分したのであろう。それを、いまさらメディアになよなよと語ってみせるなど笑止としか言いようがない。