Scribble at 2026-07-31 07:41:13 Last modified: 2026-07-31 08:00:11

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アニメに評論は必要か? 藤津亮太さんとの対談を通じて考える

先日、安っぽいアニメ評論のサイトを取り上げたわけだが、今度はしかるべき研鑽を経てアニメの評論を書いている人たちの議論を見てみよう。もちろん、僕は YouTube や X のフォロワーが何人だとか、大学でアニメを教えているとか、そういう下らない基準で判断しているわけではなく、議論している内容の水準とか根拠とかを見て判断している。

僕もアニメの評論というのは意外に少ないと感じている。もちろん、もともと評論というものは多くの人が関心を持つジャンルではない。たとえば文芸評論の本を文学作品そのものよりも熱心に読む人なんて少数派なのは自明だ。それに、大学でも「英米文学」といった学科については、いまだに芸術論のふりをしたリベラルの社会時評を教えるところだという偏見があったりする(事実そういう事例も多い。歴史的な経緯ゆえに、英語の本を読むという共通点しかない左翼の溜り場だったりしたからだ)。なので、評論なんてものは小説や戯曲などの「ネタばれ」をあれこれと喋っているだけの無粋な連中だという見方もある。また、上の対談で冒頭に語られているように、そもそも評論やレビューなんて必要ないという人も多い。そういうものでの解説とか評価など関係なく、面白そうなものは観るし、下らないと感じるものは観ない。話題作りとしての付き合いで早送りして観ることはあっても、それの評論やレビューまで観るなんて暇はかけていられない。そういう人も多いはずだ。また、評論家と同じ意見や賛否の評価でなければ世間的に恥とされるような風潮もない(もっとも、これは評論家、とりわけアニメの評論家が社会的に殆ど尊重も尊敬もされていないからであろう)。

そして、もともと評論というものがマイナーなジャンルであり、作品を鑑賞するにあたって必須の情報や知識でもないという事実に加えて、アニメの評論そのものが何か社会的なインパクトをもった事例が一つもないという、これまでの明白な実績(の無さ)も理由に数えられるだろう。いまや、岡田斗司夫氏のような、いちおうアニメの評論ではビッグ・ネームと言える人物ですら、アニメを観ている人の大半が知らないはずである(そしてもちろん、上の記事に登場する藤津亮太氏も、多くの人にしてみれば「誰?」ということになる)。もちろんオタクは瑣事に詳しいから、切通理作氏の『宮崎駿の〈世界〉』は2002年度のサントリー学芸賞を受けたではないかと言うかもしれないし(あんなものに権威があればの話だがね)、他にも SF 関連のコンクールで受賞している事例もある(それらは一種の内輪褒めなので評価しない)。しかし、アニメ作品は、映画がセールスでニューズ番組の話題になったり、内閣総理大臣が国会で「全集中」などと発言したり、海外でも作品が色々なコンクールで受賞するようになっても、国内での評論は低調なままであることに変わりはない。先に紹介したアニメの評論サイトだけでなく、他にもアニメの評論文に見えるような文章を掲載しているサイトを探しているのだが、とにかく質が低い。特に大学のサークルと称して note やブログなどで公開されている文章は、たいてい読むに耐えられるようなレベルではなく、中学生の読書感想文ていどと言ってよい。

公になっている評論が少ないのだから、こういうことを自律的に学んだり研鑽することは非常に難しい。それこそ自力で研究分野を立ち上げるような能力や時間やお金が必要になるからだ。なので、既にある先人の成果や大学とか読書会とかオンラインのフォーラムなどでの共同作業や議論などで、情報なり関連する知識なりを共有したり継承するということがあって、初めて文芸のジャンルなり文筆の仕事としても成立し継続し発展していく。だが、僕にはそういう基盤が日本にあるとは思えない。確かに、2003年に東京工芸大学でアニメーション学科が開講されてから、いまでこそアニメーションの制作にかかわる知識が教えられるようになり、既存のメディア関連の学科でもアニメを守備範囲とするようになってきているが、既にそういう制度が助走段階を含めれば四半世紀も前から全国に普及しているというのに、いまだにアニメの批評や評論は漫画の批評や評論などと同じく、一部の好事家だけがコミケなどでバラ撒いているような文章の類だとしか思えないわけである。

しかし、考えてもみれば当たり前だとも言える。なぜなら、そもそも文芸評論ですら、冒頭で述べたように多くの人にしてみればマイナーなジャンルだからである。昔から「評論家的」という形容が、主体性のない傍観者的な態度を非難するニュアンスで使われてきたことでも分かるように、評論というものには、基本的に当事者(アニメーターとか作家とか映画監督やミュージシャンや画家)となる才能がない人々による感想文にすぎないという見方があり、それは必ずしも偏見と言えるかどうかすら怪しい。なぜなら、評論には原則として学術的な体系性だとか要件として求められる知識のようなものが決まっておらず、たいていの人には床屋談義との区別ができないからだ。僕らのように大学の人文系の学科に所属していた経験があり、英文学などを専攻する人々と交流があった者からすれば、与件や要件で制約されていないという立場は逆に評論や文学専攻の利点だと言えるのだが、それを多くの人々に説得することは難しい。だが、それを利点として積極的に活用することで、確かに事実上の左翼評論になってしまっている事例も多々あるわけだが、納得できる読解を与えてくれる透き通るような批評だとか、逆に評論の方が著しく難解であるような議論も出てくる。しかし、こういう利点が自覚されたうえでアニメの評論ができるのかというと、残念ながら巷にあふれているアニメの評論と称するものは、ただのオタク談義にすぎないと言わざるをえない。つまり、些末な業界の裏話をひけらかすとか、有名人の誰それについての逸話だとか、或るアニメの一場面についての蘊蓄だとか、要するに雑学を超える知見がなんにもないというのが僕の印象だ。富野由悠季氏がつねづね言っているような、アニメのことしか知らない人間はアニメ制作に関わるべきではないという主張と同じく、アニメの評論や批評についても僕は同じ意見だ。

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