Scribble at 2026-08-07 07:14:57 Last modified: 2026-08-08 13:15:22
先日の反出生主義について述べた議論の続きにもなるが、この議論は、もともと僕が PHILSCI.INFO で述べてきた他の議論と同じ根拠を共有している。つまり、「哲学的ゾンビ」だとか、雷に打たれたオヤジとか、色盲の科学者とか、この手の分析哲学者が大好きな空想やアナロジーや思考実験の類を、とにかく馬鹿や無能に限って、何かと言えば「可能世界」という言葉で正当化しようとすることに、科学哲学者として昔からイライラさせられてきたからだ。
もちろんだが、僕が専門としている因果関係の理論という分野でも、デイヴィッド・ルウィスらがエポック・メイキングな論文を発表してからというもの、counterfactural analysis が大流行していて、いまや統計学や機械学習というトレンディな分野でも、因果関係についての著作が続々と表れている(なぜか最近は「因子分析」という用語を使わないらしいが、それは恐らく relata としての原因を推定することが主目的ではなく、関係なり関連性を見つけることが主目的になったからかもしれない)。また、これらの分野の成果を応用している社会科学の色々な分野でも、最近は「因果関係」という言葉を使う著作物が増えている。もちろん、そのこと自体は特に良いも悪いもない。
だが、哲学者として言えば、実際には哲学的な議論が殆ど進展してもいないし概念なり定式化として洗練されたり厳密になって批判に耐えられるだけの体系性を打ち立てたわけでもないのに、「ありえない(ありえなかった)ことを仮定すればどうか」というイージーな扱いだけが普及してしまっている印象が強い。要するに、「もし織田信長が生きていたら」みたいな『プレジデント』に掲載されるタワゴトと同じていどの発想を正当化するのが反事実的条件法の分析であり、そしてそれを数学で支えるのが確率論であり、あるいは世界観として支えるのが多世界解釈であるというわけだ。
もちろんだが、科学哲学者として即座に幾つか指摘できる。第一に、それらのお話は単なる SF であって、数学や宇宙論の理解として間違っていると言わざるをえない。そして第二に、宇宙論としての多世界解釈それ自体も、僕は間違っていると思う(というか、数学的にはともかく「物理的に」証明のしようがない)。第三に、確率に訴える議論は、いまやイージーな思考の一つになりつつあるわけだが、数学の概念を論証の手立てとして利用するという限度を超えてしまっているように思う。これは哲学でも学部レベルの話なのだが、或る事象の起きる確率がこれだけだという話と、その事象が起きる可能性の話とを混同している人が非常に多いからだ。SF 業界の(有能な)人ならネタだと分かっていて展開しているようなストーリーや設定を、物理的にありえると思い込んで実際に研究しようとしてしまう人たちと同じである。そこでは、論理的に可能であれば幾らでも筋の通った設定を整合的に組み立てられるが、そんなものに物理的な事象として起きる確率を割り当てる(つまり実現しようとする)のはナンセンスである。
つまり、反事実的条件法を濫用したり、これに関わる考え方だと間違って思い込んで多世界解釈の宇宙論などをこじつけている人々というのは、まず何よりも哲学科の学部レベルで教わるような、論理的可能性と物理的可能性の違いを理解しておらず(ついでに、経済的あるいは実質的可能性とか心理的可能性などもあるにはあるが)、論理的な可能性を濫用しているのだ。しかし、僕らは現実にこの宇宙で生きている存在として、いま僕らが理解している限りでの知識、つまりは物理的な可能性の中で議論し、それを訂正、改善するために論理的可能性や数学の抽象的に強力な普遍性を利用するべきなのだ。
このように議論してくると、このような誤解や濫用を実質的に(科学)哲学のプロパーとして後押ししたり裏書している人々が、たいていは都内の三流大学や出版業界にいて、それらの人々は、僕が思うには東大やアメリカの大学の博士号をもっていたり大学教員の立場にあっても、根本的に「哲学」という営為について何か誤解しているのではないかと思える(この国では、それなりに英語の本が読めたら、科学哲学は難しいが分析哲学の大学教授にはなれる)。それは、哲学という営為の力は論理的可能性を色々な話題や分野に適用するという意味での、単なる抽象的な思考や観点の濫用に源泉があるわけではないということを、どうやら理解していないようだからなのだ。寧ろ、そんなことができてしまうのはなぜなのか、それをどう制御すればいいのかという、自分自身が思考をそのように広げられてしまうという事実について反省するところにこそ哲学が必要とされるのではないか。もしそうでないなら、たとえば「究極の問い」と呼ばれている存在についての問い(why there is something rather than nothing?)などを扱うことはできなくなり、哲学者っぽいポーズをとって鬼面人を驚かすために紹介するサンプルのようなものになり果ててしまうだろう。それでは、都内のインチキ出版社が出してる「哲学入門」の類のゴミくずと同じだよ。