Scribble at 2026-07-22 22:31:36 Last modified: 2026-07-22 22:49:53
大津栄一郎氏による『英語の感覚』(上下巻、岩波新書、1993)という本があって、個人が執筆した岩波新書として上下巻になるのは珍しい。それほどの価値がある内容・・・かと言えば、僕にはやや疑問がある。しかし、皮肉な意味で日本の英語教育や英語についての理解(しかも英文学を専攻していて翻訳も手掛ける大学教授の理解)がうかがえる資料としての興味はある。それは、ご本人は "world-view" なんて言ってるし、内容は詳しい pragmatics や collocation や usage の解説だが、結局は言語や言語の習得に関する日本独特と言ってもいい精神論の典型だからだ。
他の国の事情は詳しくないものの、これだけ続々と英語の文法書や英会話や雑学の本が出版されている国にあって、僕の見ている限りでは9割の日本人が殆どアメリカ人と片言の会話すらできないし、仕事や趣味で英語の本を読んだりアメリカのウェブサイトへアクセスすることもないのである。学校教育として、殆どの国民が最低でも中学の3年間、そして9割くらいの人々は高校までの6年間、そして6割くらいの人々は四年制なら教養課程、短大なら2年間をとおして英語を学ぶから、日本の社会人の6割は8年くらい英語を学ぶと言って良い。そして、最近は小学3年生から英語を学ぶというから、その長さは高校を出るまでですら10年間に及ぶ。要するに大多数の日本人は何年も英語を学んでいながら、センスのない英語の会社名や、ワンルーム・マンションに "Dojima Palace" などと名付けるとおり、滅茶苦茶な英語を平気で使う。しかも、この傾向は戦後から80年が過ぎて多くの若者が高等教育すら受けるようになっても変わらなかったし、どれほど優れた辞書や参考書が次から次へと出版されたり、アメリカの文化や芸術や芸能が紹介されても影響はなかったのである。
どうしてそうなのか。もちろん、「英語の勉強について」という論説などで何度も書いているように、その理由や原因は明白だ。殆どの日本人にとって、英語なんて必要ないからだ。言語は、母語がそうであるように、まずもって自分自身が生きるために習得して使うものである。それは第二外国語であろうと同じであって、身に着ける必要も切実な事情もない人にとって、たかだか刹那的な興味などで関わる教養や趣味として、いやそれどころか単なる受験や就職で課される試練でしかないものを、本気で身に着けて使うなんて思わないのは当然だ。
そういう、まことに自然で当然でもある理由や事情にも関わらず、どういうわけか英語を学ぶ必要があるとか、英語を理解しなくてはいけないという人たちがいて、英語を学ぶにはこう、英語を会得するならそう、あるいは英語をわがものとするならどうと言いながら、「英語道」だの「英語の精神」だのと巨大な敵や試練に立ち向かう英雄なり(インチキ)武士のような態度を求める。そして、たいていの人々は「玉砕」して沈黙するか、あるいはたまたま何かの手段や性格などで成功した人々が、単なる自分の特殊な事情を「勉強法」だの「必勝法」だと言っては、YouTube でわめいたり、アマゾンで自費出版したり、それどころか大学で講師をやったりするわけである。
こうした、国というスケールで大多数の国民やプロパーや行政官僚や出版・教育業界などを巻き込みながら100年近くも続けられてきた、僕に言わせれば殆ど「茶番」と言ってもいい英語教育ブームや英会話ブームや、ごくありふれた英語教育というものは、もういい加減に腰を据えて再考したらどうなのかという気がしている。