Scribble at 2026-06-12 17:29:32 Last modified: unmodified
景気の良し悪しとは関係なく昔から常に言えるのは、たいていの人なり世帯なり組織なり企業なり自治体なり国家という「経済主体」には、たいてい経済的な余裕の限度や範囲がある。したがって、手持ちのお金を使って何ができるかを考え、考えられる幾つかのタスクから最善の一つを選んだり、あるいは複数のタスクをトリアージして予算を順番に割り当てたりするのは、ごく当たり前のことなんだよね。
なので、年間に1万円を捻出して何か雑誌とかオンラインの新聞を購読する人に、他の雑誌や新聞、つまりは複数の雑誌や新聞を購読するお金がないからといって、その人を「視野が狭い」だの多様性がどうのと非難する資格なんて誰にもないはずなのに、どういうわけか世の中には「視野の広さ」が唯一の価値であるかのような妄想が広まっている。哲学者として言わせてもらうが、これは完全に妄想だ。逆に、理想的に莫大な資金さえあれば、この世界のあらゆる新聞や雑誌を購読することが最善なのか。そんな筈はあるまい。
まず、「視野の広さ」などというのは、その条件を決めることなく無条件に良いなんて言えるものではない。視野なんてものは、単に広いだけではいけないのだ。単に広範で雑多な話題が展開されている状況へ身を置いたり、ものごとを漠然と眺めたり理解するだけでは、観光地へ行った人が風景を眺めるだけでは見たものについて殆ど記憶に残らないのと同じであって(たいていはどんな風景なのかは思い出せず、ただ眺めて感動したとか感心したという自分自身の感情を覚えているにすぎない)、焦点が合わせにくくなったり注意が色々な方向へ逸れて集中できない場合があったり、あるいは雑然と入ってくる色々な情報に惑わされるリスクもある。
よく、いろいろな情報を集めて「両論併記」の中から選ぶのが公平であるとか客観的であるなどと平気で言う人がいるけれど、そのような比較は個々の物事を正確にとらえて評価できる学識や経験のある人間にしかできないことであって、並べられたケーキから好きなものを選ぶような話として、選択肢が全て並べられさえすれば気軽に誰でもできるようなことであるかのように語るべきではない。
したがって、お金としても、それから知識なり学識としても、僕らは偏っていたり限界があると正しく自覚できるのであれば、まずは自分に大きな負担とならない現実的な選択肢を一つだけ選んでコミットすることが堅実だし誠実でもある。自分が興味をもつ媒体を一つだけ選べばよいのであり、それが強制されているのでない限りは、後から他の媒体に替えてもよい。そして、その最初の選択が正しいかどうかなんて、たいていは誰にも分からないのだ。ネトウヨが『赤旗』を購読したり、リベラルが『産經新聞』を購読したからといって、一概に間違いとは言えないのである。