Scribble at 2026-03-20 21:10:18 Last modified: 2026-03-20 21:47:00
適当な時期と余裕という都合がつけば、もちろん僕が述べている「人類史スケールの保守思想」について丁寧に解説するつもりはある。ただ、あらかじめ誤解をまねく余地は取り除いておいた方がいいのだろう。
たとえば、「保守」と言うだけで脊髄反射的に、復古主義だとか、「昔は良かった」オヤジとか、幕末から明治期の志士や官僚や軍人を賛美する司馬遼太郎史観とか、あるいは通俗的な事例だと『ALWAYS 三丁目の夕日』などという昭和の高度成長期に憧れる人々と同じであるかのように見做す人がいる。しかし、僕の思想とは関係ないにしても、少なくとも従来の「保守思想」が過去の日本の慣習や成果を尊んだり伝統を守ることに要点があると仮定してすら、いま列挙したものはどれ一つとして日本の伝統とは関係がないし、実は「良い」時代だったとすら言い難い。そういう復古的な人々というのは、実際のところ歴史をよく勉強もしないで過去への闇雲な郷愁を抱いているにすぎず、はっきり言えば広告代理店と一部の通俗右翼がでっち上げたデタラメを妄信している人々だ。男女が同じ姓をもたないと「一体感」がないなどという、明治までは大多数の民衆がもたなかった苗字、そして持っていた人々にとってすら相当に便宜的で功利的なものでしかなかった苗字についてのデタラメな「伝統」を語る人々がいまも多い。それから、もう少し通俗的な事例なら「江戸しぐさ」のようなインチキなど、歴史を知らないか調べたことすらない人間に限って、こういう馬鹿話をすぐに「伝統」だと思いこむ。なぜなら、彼らにとっては事実がどうであったかが重要なのではなく、どういうストーリーが自分の不安やコンプレックスを解消したり忘れさせてくれたり、あるいは愚かで地位も名誉もない自分でも生きていてよいと支えてくれるかが重要なのだ。それが陰謀論だろうと嘘だろうと、彼らにはどうでもよいのであり、それゆえ自分たちで物事を検証しようともせず、「元皇族」だの「憂国の士」だのと自称する連中が言っていることに従う。でも、それらの内容が事実だと認めているから従うわけではなく、単に嘘であるとしても責任を負うのは自分ではなく、彼ら物書きや著名人だからなのだ。
もちろん、僕が奉じている保守思想というのは、こんなものとは関係がない。それどころか、「人類史スケール」と称していることでもお分かりのとおり、僕は「日本」なんていう地域や風土に限定した思想など一言も語っていないし、信じてもいない。そんなものが守るべきものであるとは思えないからだ。したがって、多くの方々が「保守主義」と聞いて思い浮かべるような、日本という場所の伝統や習慣や価値観を尊重したり賞賛したり守るという類の思想とも、本質的には関係がない。「本質的に関係がない」という意味は、将来、日本という国が(国家としてであれ、あるいは何らかの天変地異で国土として消失するのであれ)この地球から消えてなくなろうと、僕の思想には何の影響もないということだ。しかし、人類史スケールで守るべき価値観や慣習を日本においても共有していることに違いはないので、いま現在は日本で起きている(哲学では "instantiation" と言うし、システム開発では「インスタンス」などと言う)事例を使えるだけのことにすぎない。もちろん、日本を離れて、他の国から事例を引いても構わない。
だが、復古主義とは違うからといって、もちろん進歩主義でもなければ楽観主義でもないのは確かだ。とりわけ当サイトでは明確に述べているように、リバタリアニズムのような楽観主義、進歩主義、そして最近では変種としてアメリカに蔓延しつつある「加速主義」などは、破壊的だし自滅的な思想だと思っている。