Scribble at 2026-09-05 08:48:18 Last modified: 2026-09-05 08:52:53
ロクサーヌ・ゲイの『バッド・フェミニスト』(野中モモ/訳、亜紀書房、2017)とかが典型だと思うのだけど、こういう本について文句を書いている人たちがフェミニズム関連の著作をまずもって「読み辛い」とか「何を言いたいのか分からない」と感じる理由の一つは、論述になっていないと思われるところにもあるのだろう。
こう言っては気の毒だが、自分の身の周りで起きたり観察した、まことに些末で刹那的で個別具体的としか言いようがない出来事や印象をダラダラと書き連ねているだけという印象を受ける著作が多い。既に古本屋へ払い下げた『マチズモを削り取れ』なども同様だが、とにかく話の内容が矮小で酷く主観的であり、当人たちは「日常の」「ありふれた」「些末な」状況にこそ差別や偏見があると示唆したいのだろうが、そんなことを書物の全篇にわたって繰り返したり続けていても、それは日本の凡庸な社会学者が得意とする、釜ヶ崎や同和地区や AV 業界や原発立地区域での生活を描写するだけで「学術研究」と称するような単なる落ち葉拾いにすぎない。自分のブログにでも書いていればいいだけのことだ。実際、アマゾンのレビューを見ていても、女性と思われる読者の感想は大半が「そうそう。わかるわかる!」といった個々のケースについての同感にすぎず、これでは茶飲み話と同じである。
もちろん、学術研究書や思想書のように論述せよなどと言いたいわけではないし、著者らにその学識や能力が欠落しているとも思わない(実際、この手のエッセイとしか思われない本を書く人の多くは、特にアメリカではアイビーリーグの博士号をもっていたりする。また、学歴がなかろうと別の著作では非常に精緻な議論をしている人だっている)。しかし、日本で出版されるフェミニズム関連の著作というのは、この手の私小説まがいと言ってもいい本であるか、あるいはジュディス・バトラーのようにヘーゲルを読んでいることが当然であるかのような、これはこれで別の意味で人を遠ざけるような著作のどちらかが多く、僕はジュンク堂のような大型書店へ足を運ぶたびにフェミニズムや女性史の棚には足を運ぶようにしているくらいなのだが、この傾向は一向に解消される様子がない。
簡単に言えば、女性史やフェミニズムの教科書とか概論と呼べるような著作、それから僕らのように大学院で教育を受けた者が「研究書」と呼ぶような著作が圧倒的に不足していると思う。だからこそ、ブログ記事の寄せ集めみたいな本か、あるいは難解な思想書か、という両極端な出版物しかないという印象を人に与えやすいのではないか。