Scribble at 2026-07-12 08:25:09 Last modified: 2026-07-12 21:10:07

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電子書籍には、一定の割合で「(原理)主義者」と呼ぶべき人々がいて、とにかく頑なに PDF を非難しては ePub の優越性を説いて回り、とりわけ「フロー形式」の電子書籍が最新かつ最高の電子書籍フォーマットであると高らかに宣言する傾向がある。だが、僕はこのような advocate or campaign に与するつもりは全くない。はっきり言えば、こういう態度は非常に思慮の浅いものであり、一概に PDF なり「ページ形式」の書類フォーマットが劣っているとは言えない。

もちろん、だからといって僕はここで in defense of PDF を語りたいわけではない。PDF にも色々な問題はある。しかし、その多くはファイルのフォーマットというよりも、寧ろそれを扱う生物・・・確か「人間」とか言っていた生物の一種の運用能力が未熟だからなのである。たとえば、この国の官公庁のサイトで公文書を PDF 形式でしか公表しないなどという行いは、アメリカなら行政文書に関するアクセシビリティの法令に違反することになるような問題なのだが、1,000年以上も前のエロ小説を伝承する文化がありながら、この国の人間は公文書を作成して残し管理して国民へ開示するという習慣や法令を殆ど軽視してきた。いまでも、暗殺されたインチキ右翼の元総理大臣に関わるネトウヨ小学校の建設に絡む事案で、公文書がいかに杜撰に扱われているかという一例を知ることができる。

いや、それどころか、官公庁が公表する PDF 文書の多くは公文書でありながら国民が内容のテキストをコピーすることができないようになっていて、パソコンで文字を選択してから別のテキスト・エディタなどへペーストすると、夥しい数のゴミみたいな文字が混在した異常なデータがクリップボードへ格納されていることが分かる。これには、文書を作成するソフトウェアが古すぎてエンコーディングが合わないとか、辞書データなどを混入させているとか、あるいはわざと出鱈目な文字データを埋め込んでいるとか、幾つかの理由や事情がある。いずれにせよ、馬鹿でもなければこういう問題は認識している筈なのだから、これを続けているということは意図的に不作為を維持していると言える。これもまた、厳密に言えば行政訴訟を起こしてもいいくらいの、国民に対する背任行為と言ってもいいくらいだ。そもそも、たいていの国家官僚は東大くらいは出ているくせに、パソコンの設定一つできないのか。ぬくぬくと倒産しようがない労働環境で、われわれよりも遥かに高額の給与をもらっていながら、この無能さや怠慢はどうしようもない。

ともあれ PDF のような「ページ」という単位でドキュメントを扱うフォーマットが、判型として固定されているというだけのことで本質的に劣った、あるいは悪質な文書形式であるかのように言われるのは馬鹿げている。これまで人類は長きにわたって印刷物を利用してきたわけだが、それをフロー形式の電子書籍にしたからといって、これまでの知見や業績を遥かに上回るような成果が続々と出てくるなどという保証はないし、現にフロー形式の ePub だけを使っていると自称しつつ巨大な業績を上げたようなプログラマや学者や起業家なんて世界中を探しても一人すらいないわけである。そんなことは、人が人生や仕事を成就することと何の関係もないのだ。フロー形式で書籍や文書が提供されていないという、趣味的な理屈を言い訳にして、仕事や勉強すらまともにできない無能がごちゃごちゃと喋っているだけのことだ。

それに、フロー形式の文書というものには致命的な欠陥がある。

・ページという概念がないため、正確に典拠表記できないので学術用の研究に使えない。

・しおり機能がないと場所を記憶しないといけなくなる。これは内容とは関係のない無駄な記憶だ。

・行内で文字が現れる位置を計算してある文学作品は意味を失う。

・そもそも漫画のような作品には全く使えない。

とりわけ、学術研究論文にフロー形式を導入するなどというのは気違い沙汰と言ってよい。しばしば理数系の文献では、典拠表記にページ数を示さずに論文のタイトルだけを記すような陋習が残っているけれど、100ページに及ぶような論文だったら、参照するべき個所がどこなのか誰も正確には分からないという可能性がある。それはつまり、その文献を本当に参照したのかどうか、科学なり学術として疑うべき正当な理由があるということだ。このように、理数系のコミュニティでありながら不正確で厳密さのないデタラメなことをやっている事例もあるわけなので、こういう陋習をサポートし温存するようなフロー形式のフォーマットは、次世代の電子書籍フォーマットであるどころか、学術の世界からは駆逐されなくてはならない。

確かに、フロー形式だと文字のサイズをデバイスの表示範囲という制約の中で変えられるという利点がある。これは確かに利点と言っていいだろう。だが、フロー形式の文書フォーマットに考えられる利点は、正直に言えばその一つだけであるとすら言える。他は欠点しかない。そして、この利点は判型が固定されている PDF であろうと、スマホやタブレットなら一時的にピンチングで文字を拡大できるという workaround で対処できるていどのことだ。

こう考えてくると、フロー形式の文書を読むということは、チャッピーとの会話のように場当たり的で履歴を振り返る必要もない、要するに SNS のタイムラインみたいなものを眺めているのと同じなのである。つまり、こんな文書フォーマットに社会や歴史や文化、あるいはあなた自身を変える力などない。大抵の人は、履歴を参照する学術研究の訓練を受けていないし、その必要も感じていないから、フロー形式の文書を疑問の余地もなく扱っているのかもしれない。だが、それは知識や情報に関する「焼き畑農業」のようなものであって、まさに電子フォーマットの文献や書籍が学習にとって意外に非効率だったり記憶に残り難いという調査結果とも符合している。メディア・リテラシーは、こういうことからも啓発するべきなのだろう。

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