Scribble at 2026-02-24 09:59:57 Last modified: unmodified

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Formal epistemology without demandingness

ブログでこういう分野があると紹介しているプロパーがいるのは知ってるけど、正直なところ国内では殆ど業績が積み上がっていないのが、この formal epistemology だろう。もちろんベイジアンかどうかは問わない。なので、こういうアプローチに対する批判的な議論であろうと、それからここで取り上げる擁護であろうと、ひとまずは「海外哲学事情」といった、まるで NHK の無自覚・無頓着な報道番組みたいな話になってしまうのは仕方のないところだ。何が出せたとしても、この国では「文系・理系」という差別用語や認知フレームが教育からマスコミにいたるまで蔓延しているため、哲学は「文系」であるからして、数式や論理式なんかは受け付けない人々のものだというのが常識になっている。なので、情報を受け取り読む側が自らを差別して喜び、それどころか「文系編集者が理解できるまで解説した量子力学」みたいなタイトルの本があるんだっけ? 殆ど「文系」という言葉を「馬鹿」や「勉強嫌い」とかと同じ意味で使う出版関係者も多いのだから、この国は自ら誰かに虐げられることを寧ろ乞い求める変態民族と言うべきなのだろう。ともあれ、こんな民族が中国に占領されてウイグルと同じ運命をたどるのか、あるいは自ら少子化の果てに消えていくのかは知らないし、はっきり言って哲学者としては(そして、そんなことが起きるまでには死んでいるであろう僕という生物個体にとっては)どうでもいいことだ。

さて、この論文で著者のティム・スマートは、形式論理や数学を用いる「形式的認識論(formal epistemology)」が、人間には達成不可能なほど厳しい要求を課しているという批判、いわゆる「要求過多(demandingness)」の反論に対して、モデルビルディング(model building)の観点から新しい回答を試みている。では、この要求過多であるという批判がどこからどのように論じられているのかという点について少し見てみると、実はこの論文には要求過多という批判の具体的な議論が出ていない。この批判は、特定の個人というよりも、形式的な手法に懐疑的な哲学者たちの間で広く共有されている一般的な反論として紹介されている。だが、これでは具体的な批判者がいないのに批判されているかのような体裁で擁護しようとすることになり、藁人形論法になってしまう。

かろうじて分かることと言えば、批判者の一人としてどうにか名前を挙げているのがロザンナ・キーフ(Rosanna Keefe)だ。彼女は2000年の著書 Theories of Vagueness の中で、言語哲学におけるモデル・ベースのアプローチを批判している 。彼女の主張は、モデル構築者は自分たちのモデルのどの部分を真剣に受け止めるべきかについて、場当たり的(ad hoc)な説明しかせず、「これは単なるモデルだ」という言い訳をあらゆる問題から逃れるための逃げ口上として使っている、というものだ。なるほど、しかしこれでは議論の中身がよくわからない。正直、学部生でもこれくらいは言えるからだ。そして、少し調べてみると、このロザンナ・キーフという人物の著作は、ほぼ全てクローズドとして発表されており、論文1本でもお金を払わないとアクセスできないため、正直なところ確認するのは無理である。個人サイトの落書きというていどの場でちょっとした好奇心から参考にしたいというだけの理由で、Springer だから論文を1本だけ読むためだけに数千円を払うつもりはない。なので、ここでは「想定される批判」として、チャッピーとの壁打ちでもやってるつもりで対処する他にないだろう。

ということで、この論文の紹介を続けると、まずスマートは、形式的な認識論で行われていることを「規範的モデル化(normative modelling)」として定義している。一般に科学で使われる「記述的モデル(descriptive model)」が対象の実際の振る舞いを説明するのに対し、規範的モデルは「エージェントがいかに推論し、信念を整理すべきか」という「べき(ought)」を提示することを目的としている。ここで重要なのは、スマートが規範的モデルと「べき」の間に「穏やかな結びつき(moderate connection)」を認めている点だ。これは、モデルが常に完璧な助言を与えるわけではないけれど、自然な状態において何らかの「規範的な導き(normative guidance)」、つまり役立つ助言を与える役割を担っているという考え方だ。

次にスマートは、マイケル・タイトルバウムのフレームワークを引用して、抽象的な数式からなるモデルがいかにして現実の助言になり得るかを説明している。モデルそのものは数学的な対象に過ぎないけれど、「橋渡し原理(bridge principle)」によって論理的帰結や主観的確率といった「哲学的な概念(philosophical concept)」と結びつき、さらにそれが現実の「推論の規範(norms of reasoning)」へと変換されるというプロセスを示している。また、「適用範囲(domain of applicability)」というルールを設けることで、モデルの助言が有効な場面とそうでない場面を切り分けることができるとしている。

最終的にこの論文の結論は、形式的な認識論のモデルが過度に厳しい要求を課しているように見えるのは、モデルの構築手法そのものが誤解されているからではなく、むしろモデルの本来の目的が「有用な助言を与えること」にあるからこそ、その要求の厳しさが正当に評価されるべきだというものだ。モデルの要求が厳しきことは、寧ろ歓迎されるべきことというわけである・・・体育会系かマゾかよ。もし、ある規範(例えばベイズ的な更新ルールなど)が現実のエージェントにとって全く実行不可能で役に立たない助言しか出さないのであれば、それは規範的モデルとしての目的を果たせていないことになる。逆に言えば、形式的な認識論はモデルの適用範囲を適切に限定したり、複数のモデルを使い分けたりすることで、人間に不可能なことを強いることなく、有意義な指針を提供し続けることができるとスマートは主張している。

この手の議論は、どこか別の話題についても見たことがあって、「これはあくまでも現実を記述しようとしているだけだ」と弁護するか、あるいは「これはあくまでも理想として提案しようとしているだけだ」と弁護するかの選択が、非常に恣意的だと感じさせられることがあった。というよりも、議論したり論述している当人ですら、自分がどちらを想定して論じているのか分かっていないし決めてもいないのではあるまいかと感じさせられるような著作があるんだよね。そういうものを、多くの人たちは「深い」だのなんのといって解釈学をやり始めるんだけど、それを一つの不徹底とか混乱とか自己欺瞞だと見なすような、いわば「古典の批判学」みたいなアプローチだってあっていいというのが、僕の古典に対する態度だ。というか、そういうアプローチにも耐える著作こそ「古典」と呼ぶにふさわしいと思うがね。まさか、KdrV や『哲学探究』は、みなさんにとって世の理どころか真理が記された聖典のようなものなのかね。そこまで読み物ごときに対して平伏す自虐的な人が、哲学という、しょせんは自分自身の欲求や動機や目的だけでやるような学問に生涯をかけてコミットするなんて、信じられないね。キャバ嬢に「俺って、慶応で哲学やってるじゃん」とか言いたいだけのポーズなんじゃないの?

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