Scribble at 2026-02-22 18:37:05 Last modified: 2026-02-22 18:45:02

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The negativity crisis of AI ethics

ピーター・コーニグスによるこの論文(the negativity crisis of ai ethics)は、現在の AI 倫理という学問分野について、構造的に AI を悪者として描くように仕向けられていると指摘している。著者によれば、AI 倫理のコミュニティは AI の持つ巨大なポジティブな可能性を無視し、リスクや問題ばかりを強調する「ネガティビティ・クライシス(否定性の危機)」に陥っているという。この偏りは、個々の研究者の性格というよりは、この分野が学術的に組織されている特定のやり方に起因している。STS なんかと同じく、インチキなラッダイトの左翼が集まりやすいからかな。

嫌味はともかく、この否定的な偏りを生み出しているのは、主に3つの制度的要因だと著者は主張している。第一に、AI 倫理の「研究対象(subject-matter)」の性質だ。伝統的な哲学が「正義とは何か」といった何世紀も続く抽象的な問いを扱うのに対し、AI 倫理は新しい技術の導入という特定の出来事に対するコメントを求められる傾向がある。第二に、倫理学者の間には「単に良いことを報告するだけでは不十分」という、暗黙の「望ましい影響(positive impact)」に関する規範が存在している。例えば、「ChatGPT は教育リソースへのアクセスを安価にするので素晴らしい」とだけ主張する論文は、学術的に奇妙に映り、査読を通るのが難しい。哲学者として何か世の中に警告を発するようなスタンスをとるのが、格好いいというわけだ。そして第三に、研究者にはキャリアのために出版し続けなければならないというインセンティブ(incentives)がある。AI には何の問題もないと考えてしまうと、書くべきことがなくなってしまい、実質的に意識高い系の批判者であることが求められる学界で生き残ることができなくなるというわけだ。なんともはや。

もちろん、僕は画像生成 AI のヘビー・ユーザだし(モノクロ写真に類する画像を、この3年間で1,000万枚近くはパソコンで作ってきた)、会社の実務でもおおいに役立てているのだが、だからといって無批判に喜んでるわけでもないし、はっきり言って NotebookLM には強い不満があって、音声概要を使わなくなった。日本語の発音がいつまでたっても不正確だし、人物の声の質もぜんぜん安定しないし、対話として入れ替わるべき発言のタイミングで同じ人物が喋り続けるというバグも多い。正直、僕自身がモノローグで喋る方がマシだと感じることが、どういうわけか逆に増えてきた。

で、これらの要因が組み合わさることで、AI 倫理の描写は必然的に一方的な内容になり、さらにネガティブな側面が誇張されるエコー・チェインバーが生じる 。著者は、これが「道具の法則(law of the instrument)」、つまりハンマーしか持っていなければすべてが釘に見える現象と同じだと指摘している [河本注:これはおかしい。マズローが言ったのは、「ハンマーしか持っていない者は、なんでも釘のように扱おうとする」ということであって、見えるとかそういう話ではないはずだ]。倫理学者の主要な道具は問題の特定であるため、彼らは問題がないところに問題を見出したり、些細な問題を過大評価したりする。具体的な例として、著者は responsibility gaps、つまり自律的な AI によって責任の所在が不明になるという問題が、実は実体のない架空の問題である可能性を挙げている。

この状況は、心理学などで問題になっている replication crisis と構造的に似ているという。再現性の危機が「出版可能な有意な結果」への執着から生じたように、著者は AI 倫理の危機も「出版可能な問題提起」への執着から生じているというのだ。そして、このバイアスが mandevillian intelligence 、つまり個人の欠点が集団としての知性を高めるような有益な効果をもたらしているという説も否定している。なぜなら、このバイアスは全員を同じ否定的な方向へ追いやるため、研究の多様性を損なわせるからだ。また、テック業界の楽観主義に対抗するために必要だという反論に対しても、社会には規制当局や労働組合など他に否定的な勢力が十分に存在しており、学術コミュニティはあくまで中立な審判であるべきだと著者は述べている。まぁ、そらそうだよね。

最終的にこの論文が示唆しているのは、AI 倫理コミュニティが提示する陰鬱な見解を、そのまま鵜呑みにせずにある程度割り引いて考えるべきだということだ。これは higher-order evidence、つまり自分の判断プロセスがバイアスにさらされているという証拠に基づき、自信を調整すべきだという考え方でもある。もちろん、AI に真に深刻な問題がないわけではないけれど、現在の AI 倫理を論じるという構図自体が、実態以上にパニックを煽るように設計されてしまっていることを自覚する必要がある。

まぁ、あれだよね。ハイデガーみたいに技術を語りたいみたいな自意識があるもんな。無能なやつには。

ただし、そうは言っても現今の生成 AI が学習素材としてきたデータの出所を考えると、その妥当性を業界全体に問うというスタンスは、とりあえず最初は有効だったわけだ。したがって、AI の倫理について、ナオミ・クラインばりの左翼や反体制の物書きみたいなことを言っていれば、ひとまず立場を確保できたわけである。まぁ、日本の場合は最初から哲学のプロパーにそんな「立場」を期待する人が殆どいないので、誰が何を言っていようとスルーだったろうけど。しかし、はっきり言えばそれは倫理の問題ではなく、端的に言って著作権に関わる法の問題であり、これまで IT 業界がやってきたプライバシーの軽視などと同じく、イノベーションや IPO のためなら他人の権利なんてクソ喰らえみたいなサイコパスなアメリカ人の習性という話でしかない。哲学の問題じゃなくて、そういうベンチャーの小僧どもや彼らに群がる金融関係のチンピラどもをどうやって(教育や心理学や法律で)ぶん殴って言うことを聞かせるかという話でしかない。

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