Scribble at 2026-02-16 10:17:47 Last modified: 2026-02-16 10:26:51
僕がアナロジー嫌い思考実験嫌いであることは既に何度か書いているし、これに伴って通俗本のイラストや図表のインチキや未熟さを「文化犯罪」だの編集詐欺だのと非難していることもご承知だろう。だが、全く何も知らず学ばずに毛嫌いしているというわけではなく、視覚的な情報伝達なり図学のような分野なりにも一定の目配せはしているし、これに関連する書籍も(実際にはプロのデザイナーでもあるから当然なのだが)手に取っている。
しかし、そういう本の大半は、バーバラ・スタフォードくらいの力量で博物学をやるならともかく、たいていは牛乳瓶の蓋を集める小学生ていどの事例を並べるか、哲学的に底の浅いスローガンをまくしたてるだけであり、そういう著作物自体が僕の神経を逆撫でするほど愚かな議論や説明に満ちている。したがって、雷に打たれた親父だろうと、色盲の神経生理学者だろうと、あるいはゾンビのような「哲学ごっこ」の道具だろうと、そんなものを『科学哲学』なり『科学基礎論研究』なりに持ち込んでみたところで、都内の三流出版社から本を出した以上の、どういう哲学的業績を打ち立てたのか君たちは、と問わざるを得ないわけである。まったく、こんなものを毎年のように授業でお喋りして哲学の教員やってる連中なんて、ほんとカスだと思うね。僕の学部時代の先生は現象学の研究者だったけれど、哲学の講義で思考実験やアナロジーどころか、喩え話の類すら殆ど口にしないで授業をされていたのだが、それで何かが分かりにくいとか不十分だと感じたことなど一度もなかったぜ。
確かに、過去の実例を並べ立てて効果を力説することはできるだろう。いま読んでいる金子務氏の『思考実験とはなにか -- その役割と構造を探る』(講談社ブルーバックス、1986)は、いまでもこれと同等の一般書は少ないと言えるくらいの良書だとは思うけれど、しかし科学史や思想史の著作物によくある欠点の見本でもある。それは、タイトルに書かれた語句とは裏腹に、史実や思考実験の羅列で埋め尽くされていて、哲学的にはカルチャー・スクールか学部レベルの授業ていどのことしか言っていないということだ。特に、こういう議論によくあることだが、やはり correlation vs. causation の典型という気がする。その思考実験によって、初めて一定の成果が上げられたのであるという論証があまりにも弱いし、たぶんそんな論証は本人の思考や経験の精密なデータが残らないのだから、不可能だろうと思う。よって、こういう史実を並べる著作は、経営学の駄本と同じで結果論のカタログにならざるをえないのだ。
そもそも、たいていのアナロジーや思考実験の乱用なり誤用によって、人は深刻な結果を引き起こしてきたとも言える。その最たるものが、宗教であり、そして或る意味では愚かな人間が携わる「哲学」であったと思う。したがって、寧ろわれわれはアナロジーや思考実験の効用を説くだけでなく、そのリスクも一緒に説かなくてはいけないはずであって、世の中には病的な思考も含めてどれほどの愚劣な思考実験やアナロジーの実例があったかも正確に解説するべきである。それが、特定の宗教や政党や学術研究の方針などを非難するような内容であろうと、そこに是非の基準を持ち込まない限りは、思考実験なんてしょせん暇潰しの妄想と同じで、やってもやらなくてもいいようなことだという話に終わってしまうだろう。