Scribble at 2026-02-15 17:31:33 Last modified: unmodified
それなりに多くの本を読んできたという事情があって、社内では本の読み方だとか選び方について質問を受けることがある。もちろん、会社での雑談だから厳格でもなければ正確でもない話ではあるけれど、僕なりに自分の経験や思うところは正直に説明したりアドバイスしている。
まず、非常に多くの人が、一種の偏執的な読書を理想として描いており、僕はこれを真っ先に宥めるというか明解に否定するところから話を始めることが多々ある。多くの人が言うには、せっかく買って読むのだから、その本の内容を全て自分の血肉にしたいと切望したり期待することが多いようだ。でも、これは読書という営みについての錯覚、あるいはヒトの認知機能に関する錯覚が生み出す妄想であろう。
書物というものは、それが文章であろうと絵本であろうと、何らかの記号によって表された情報を印刷した、あるいは電子書籍なら表示するメディアだ。そして、そこには記号があるだけで、それが何を意味するかは読む人の知識だけでなく、読む人の目的や事情などによって変わるものだ。それゆえ、「浅い読み方」とか「深い読み方」などと言われたりする違いがあるのだろうし、人によっては書かれている内容を誤解して過小評価したり過剰評価することもある。そして、どういう条件でどういう読み方になるかは、それぞれ読む人の置かれている環境だとか事情によって異なり、それは同じ人でも別の環境や事情に置かれたら変わってしまう可能性がある。したがって、書物つまり記号というものは本質的に脈絡へ依存してしか意味や内容が伝わらないという特徴があり、それをあらかじめ(自分自身にとってすら)条件として固定したり、あるいは全ての可能な条件を想定して、あらゆる条件において成立する意味を、たった一度の読書であれば当然のこと、それが「読書百遍」と言われるほどの回数であろうと、全て読み取るなどということは、そもそも原理的に不可能なのである。
もちろん、原理的に不可能だから理想として掲げても無駄であり、どう読んでもよいなどと助言しても、それはただの敗北主義や相対主義というものであろう。読み方や読んだ内容として理解できることがらは無数にありえるから、十分な読書など真面目に目指さなくてもいいし、どう読んでも自由であるというのは、無知無教養で意欲すらない人間にとっては絶好の自己正当化になるだろうが、そんなアドバイスであれば何も言わないのと同じどころか、事態を悪化させるだけであろう。したがって、誤解は可能な限り避けるべきだし、誤解でなくとも、読んだ内容からの短絡だって避けるべきなのだ。僕が、哲学関連の公式集やカタログのような、岡本某氏とかがよく書いている通俗書をガラクタどころか「文化犯罪」だと言っているのは、こういう理由がある。いや、これ本当に大学院博士課程へ行っていた人間として、社内をはじめとする公の場で言ってきたことなので、雑談なんて覚えていないとは思うが電通や博報堂の人にも話したことあるよ。
こういうバランスの取れた態度をとる必要はあるにしても、見識として自分の限られた人生を鑑みれば、たとえば新書1冊に色々な読み方があるからといって、それ1冊を手にした中学生が死ぬまで何千回と読み直すことに意義があるのかどうかと言えば、僕は書物あるいは他人の成果にそこまでの比重を置く生活とか人生というものは、非難こそしないが褒められたり他人へ勧めるようなものではないと思う。そのような態度は、敢えてこういう言葉を使うが、発達障害や偏執症や強迫観念といった幾つかの可能性を考えた方がよいだろうと言いたい。また、そういう可能性がないとしても、そのような態度は読書あるいは他人の成果に対する過度の期待やセンチメンタリズムであって、本さえ読んでいれば何か良いことがあるという、非常に幼稚な態度だと思う。出版社にいて、そしてプロの編集者としても少しは経験を積んた人間として言うのは奇妙かもしれないが、僕は書籍というものが他人の成果であることを尊重するし、そういう出版や流通活動に一定の敬意は持っているけれど、その手のセンチメンタリズムや楽観主義は抱いていない。
なので、極端なことを言えば、新書や文庫の類はせいぜい大半が一度しか手にとって読まないのであって、そのときに読んで感じたり考えたり思ったことが全てだと割り切るべきだと言いたい。そして、何が書かれているかという話だけなら、生成 AI がいくらでも要約してくれるのである。したがって、重要なのは自分がどこに着目して、何を思い、そしてどこから何を考えたかであって、読書ノートを取るのであれば、それこそを書き留めなくてはいけないのである。世の中には、読書ブログなどと称して、本の梗概や要約や目次を並べ立てているものが多々あるが、あんなものは生成 AI を使えばいまどき幼稚園児でも書ける。要するに、文字通り子供騙しでしかないのだ。ということで、新書や文庫を読む場合には、その読書が有益なものであろうと無駄なものだったにせよ、自分が何をどう思ったり考えたかを、最低でも1段落の文章として残すことを勧めている。そして、それ以外に何か学ぶべき内容がなかったかと心配するのを辞めることが健全な読書だろうと言っている。その本の「真の、正しい内容」だとか、あるいは人文・社会系の無能な研究者がたびたび口走る「全体像」とかいう妄想に振り回されるのは、はっきり言って時間の無駄である。もちろん、学者が彼自身の無能ゆえの暇潰しとして追い求めるのは好きにすればいいけれど、そんなものを古典研究の究極の目的であるかのように言い立てるのは、自分ができもしないことを勝手に目標に据えているだけのことであり、誠に迷惑な話でしかない。