Scribble at 2026-02-12 07:14:28 Last modified: 2026-02-12 10:35:33
なんだかんだ言いつつ、僕も凡庸な勤め人の一人であるからして、マネジメントについて考えたり模索したり悩むことは多いし、もっとスケールの小さな作業というケースでも悩むことはある。そういう経験の積み重ねをどう考えたり弁えたら良いかについて、いわゆるビジネス書や自己啓発本を手がかりにすることだってあり、数年前には半年で70冊ていどのビジネス書を渉猟したことがあった。
もちろん、僕は東大を出てマッキンゼーのコンサルをやっているわけでもないし、神戸大の経営学教授でもないので、誰彼に自分の経験や考え方を開陳したり、いわんや教えるなどという立場にはなく、そのような願望もない。ちまたには僅かな経験や読書をもとに「誰かの役に立てば幸いです」式の、素人や未熟な人間にありがちな coward excuse を並べては、傲慢にも経営や仕事や勉強、いやそれどころか人生や「哲学」について語ろうとする人々が無数にいて、X や Facebook にはマズローやホリエモンやウィトゲンシュタインやニーチェや高市早苗の言葉を振り回す namedroppers が山ほどいる。
ここで具体的な話はしないしするつもりもないが、しかし事実を冷静に眺めるだけで、みなさんはこうした概況から明解な視野あるいは理解を得るだろう。哲学という営みは、或る意味ではこういう「パースペクティヴ」を得るためのガイダンスみたいなものなのだ。そこで、これら自己啓発やビジネス書が数多く書かれていて、数多くの人が読み、そして夥しい数の感想を SNS にぶち撒けているという事実、しかし本を読んだりセミナーへ参加した感想は一種の広告として数多く投稿されているのに、誰かの書いた記事やツイートを読んで、それを実行してみた人の感想は殆どないという事実、そして、世界中で膨大な数の自己啓発ツイートが投じられていながら、人々の生活や多くの国の政治や地球の環境という現実の変化には殆ど影響も効力もないという事実、そして最後に、そういうことをツイートしまくっている人々の大半が、それを延々とやり続けているしかないように見えるという事実である。
これらの厳然たる事実の集積が指し示している実態や実相というもの、あるいはそれを正確にとらえるためのパースペクティヴなるものは、おおよそ(眼を塞ぎたくなるかもしれないが)明解である。それは、僕が当サイトで常々言っているように、無数の「ゼロ算術」でしかないということだ。もちろん、博物学者、あるいは岸くんらのような社会学者であれば、小数点以下何桁までがゼロなのかはわからないが、人のやっていることの値打ちはゼロではなく、その集積がいつかは有意な効力をもつかもしれないという統計学的センチメンタリズムを抱くのかもしれないが、哲学者にそんなものは関係ない。確かに、そういう願望をもつことは自由だし、そういう発想そのものが一つの(皮肉にも社会学者や社会学にとっての)自己啓発や自己正当化なのであろう。
しかるに、これは表に何かの効力だとか結果として現れるようなものではなく、われわれがどのように考えて生きるかという、それなりに切実なテーマに一つの方針や心構えなどを与えたり思いつくための仕掛けであると考えたほうが現実的だろうと思う。それが、自己欺瞞なのであれ、自己陶酔なのであれ、あるいは宗教のように「死ぬのが怖い」という絶望的な予感や強迫観念に打ち勝つか耐えるためのごまかしなのであれ、何らかの意味で自己完結したり自分の「ロジック」へ回収する仕組みであろうと考えるのが妥当だろうと思う。
なので、あなた自身がそれを必要としているなら、自己啓発系の本を手に取るでもいいし、セミナーへ参加してもいいし、(あまりお勧めはしないが)宗教者の講話や聖書の読書会へ参加するのも自由だ。しかし、毎月のように続々と出版されるこの手の本を片っ端から買うなり図書館で借りて読もうとするのは、はっきり言って時間やお金や労力の無駄だと言いたい。もちろん読んでもいいが、それは生活や仕事ましてや世のため人のためになるようなものではなく、せいぜいラノベを読んでいるていどのことでしかないのだ。
僕は、当サイトのコンテンツでも分かるように因果関係を研究している。そして、「因果関係を研究している」と言いながら妙な話だが、僕は因果関係ということがらがこの世界に実在するとは思っていない。あるいは、少なくとも世界を理解するための frame of reference としてはあまりにも未熟で雑なフレームであり、これからの哲学においては使い物にならないと思っている。しかし、物事を原因と結果の関係として捉えたり説明することは強力な(短絡という)説得力をもつので、これをどうやって思考や理解つまりは認識論的なカテゴリーとして排除ないしは洗練させるかは、やはり現実の科学の成果に照らして検討すべきことであり、単に古典的な哲学の「傍流」から因果関係という概念への批判的な見方を発掘してみせるだけの芸当を続けるだけでは不十分である(無意味とは言わない)。
なんで自己啓発本の話題でこんな話をするのかというと、日本で発売されている自己啓発本の8割以上はアメリカの著者の影響を受けているか翻訳書であり、そしてアメリカの自己啓発本の大半は、要するに New Thought やモルモン教や Christian Science と呼ばれる世俗主義的な宗派のキリスト教が教えていることの応用にすぎないからだ。「ティール組織」もそうだし、「7つの習慣」もそうだ。一見すると関係なさそうな「イノベーションのジレンマ」だって、既に亡くなったクリスチャンセンはモルモン教徒であり、丁寧に読んでいれば随所に彼の思想が読み取れる(あの手のビジネス書をそういう目的で、しかも精密に読む人は経営学のプロパーにすら殆どいないと思うが)。つまりは、すべての結果の原因は自分自身の心持ちや行動にあるという短絡的な自己啓発本が盛んに書かれて読まれているのは、そのような考え方が宗教としても多くの人々の共感を得やすいからなのだ。そして、これは哲学のような学問においても、数千年以上の昔から多くの古典的な業績を残した先人たちにも理解されたり、あるいは無自覚に受け入れられてきた発想なのである。
これを、プロパーでもないアマチュアの僕が簡単に否定したり反対するのは困難ではあるが、少なくとも大学院に在籍していた当時の僕が立てていた研究テーマの柱ではあったのだ。probabilistic causation なり、いまなら causal sets なども視野に入れていたと思うが、こうしたテーマを扱っていたのも、結局は「人はどうして原因と結果という短絡から脱しきれないのか」というところにあった。そして、世の中の自己啓発本やビジネス書を読み漁るような人々の心理もまた、そういう短絡を求める発想と同じだろうと思う。世の中の「正解」を知り、そして自分が何かやりさえすれば「成功」へ至るという、僕に言わせれば悪質で、しかし魅力的な短絡だ。
そして、このような短絡には別のリスクがある。それは、「正解」は各人によって異なるという相対主義との悪魔合体によって、原理・原則や学問の体系的な知見を軽視するという反知性主義に陥りやすいということである。SNS を見れば一目瞭然だが、色々な人が色々な教訓だの「学び」だのをシェアしている。それはつまりケースによって異なる「正解」があるという、それなりに正しいことを示しているのだが、それがどうしてなのかという体系的な視点を持っていない人々(つまり大学などで学問の厳密かつ体系的な考え方の訓練を受けていないかサボった者)の多くは、短絡的な因果関係の発想に加えて、短絡的な「ケース・バイ・ケース」という見掛けの相対主義へ落ち込む。そこから先へ条件分けという思考を進めたくないという、凡人によくあるインセンティブを考えれば、そういう相対主義にとどまりたくなるのも無理はない。だが、その結果として次々と自己啓発本やビジネス書を読むことになる。そして、その結果として大して仕事も生活も心持ちも変わらない人たちにとっては、残念なことにその元凶は自己啓発本の著者ではなく、学問そのものだったり科学だったりに置き換わってしまうことがあり、これが反知性主義へと人を導き、X などで流通している各種の陰謀論や反ワクへと人を導くのだ。