Scribble at 2026-01-31 06:12:25 Last modified: 2026-01-31 08:39:43

自分が書こうとする文章なり文書について、それを読む人々から適正かつ良い評価を得たいと期待したり望むのは、何もおかしなことではないし、不遜なことでもあるまい。しかし、これが度を過ぎると単なる妄想へ陥る。たとえば、アマゾンや書評サイトや本の雑誌などで色々な人たちが書いている読後感や批評などを眺めては、或る著者の本には多くの人々が感想を書いていて、「良かった」という一語から数十行へ及ぶ賛辞に至るまで、様々な美辞麗句が並んでいることもあろう。とりわけ、ベスト・セラーには毀誉褒貶の言葉が集まるにせよ、その反響の大きさそのものが一つの成果なりインパクトを示しており、物書きあるいは出版を生業とする人々においては羨望の感を起こさせることも多い。何と言っても、幾つかの逸話があるとおり、成功した出版物1点の営業利益だけで発行元のビルを新築できるくらいだ。

もちろんのことだが、僕もわざわざお金と時間とわずかな才能を費やして、こういうところで文章を公開しているからには、相手の反応なり印象なり感想なりを期待せず無視しているわけではない。あたりまえのことだが、誰が読んでいようといなかろうと、あるいは読んで何を感じようと知ったことかというなら、こういう文章を公にすること自体が単なる社会的なノイズの追加でしかなく、まさに言葉のとおりゴミクズを往来で撒き散らすに等しい愚行というものであろう。だが、他方で僕は愚かな人からの賛辞など1億を集めても世の中は 1mm たりとも良くならないという信念をもっているからこそ、小平の高速道路でスピノザを語る(いまでは殆どスピノザについての業績はなく、全集の編集からも排除されたようだが)人だとか、四国の山奥だかでサバイバルの哲学を喚いていた元役人だとか、浅知恵を溜め込むことだけに熱心な素人が絶賛する(しかしいまでは生成 AI が完全に代行できるような)本を書いたほうじ茶だか紅茶だかいう暇人、他にも当サイトでは「勉強」大好きのブ男だとかインチキ哲学用語集などアンチョコばかり書いている無能とか、それから障害者や癌患者や痴呆症の老人さえ扱えば深刻な議論が出来ると思って浅薄な「ケア」を掲げ続ける現象学者とか、色々な人物を罵倒しているわけだ。こんなものが毎年のように何冊も出版されて、「全米が泣いた!」などという滑稽なフレーズと大同小異の販促メッセージや「哲学芸人」と目される有名人の推薦コメントを付けて書店に並び、そして(飽くまでも僕の思うところの)バカどもに何億冊が売れようと、現実に世の中は何一つ変わらないし、変わるはずがないのである。これをして、僕は昔から「社会科学的なスケールやカテゴリーにおいて識別できる限りで、1万年が経過しても誤差にしかならないていどの違い」しか社会に影響を及ぼさないものだと言っている。これには、「それでも、僅かな違いさえあれば何かをやったことになる」という、日本のセンチメンタルな社会学や文学によくある「ゼロでさえなければ意味がある」式の美しい敗北主義が反論としてつきものなのだが、人類が1万年後までに滅亡していたらどうなのか。この手の敗北主義は、確かに文学としては心地よいとは思うけれど、しょせんお花畑に寝転がってマスターベーションしているような態度でしかなく、人としてはともかく哲学者としては恥ずべきものであろう。

しかるに、僕は自分が書くものを「万人」などに向けているつもりはないし、それが理想だとすら思っていない。ただ単に「あ」という文字を公に表すだけで、意図が伝わる人もいれば怪訝に思うだけの人もいるし、日本語を介さない大半の外国人にとっては更に困惑させられる体験でしかないだろう。先に述べたとおり、僕はアフォリズムが大嫌いなので、可能な限り言葉を尽くす方が望ましいと思っているけれど、だからといって文字を増やせば増やすほど誤解が減るとか意図が正確に伝わるなどという、小学生レベルの言語学や言語哲学にコミットしたいわけではない。また、こう言っているからとて、自分の考えを理解しうる(そして賛同したり絶賛してくれる)限られた人々だけを相手にものを書こうとしたり、読者として想定することも、実際には馬鹿げた妄想というものだろう。自分の書いたものを理解できる相手だからといって、その感想を「東大科学史科学哲学に今世紀の思想・哲学をリードする天才現る! 読んでよかった」みたいな文章をアマゾンのレビューに書いてくれるとは限らず、理解できたからこそ罵詈雑言を書かれる可能性だってあるのだ。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


共有ボタンは廃止しました。他人へシェアしてる暇があったら、ここで読んだあなたが成果を出すべきです。