Scribble at 2025-12-30 07:44:05 Last modified: 2025-12-30 07:45:51
これまでは誰かが住宅の個室や街角あるいは居酒屋で呟いていただけの発言が、いまでは色々な地域に住む多くの人が簡単に見かけるようになった。それを「大切な個人の意見」として「シェア」することが、昨今のインチキなメディアにおける大義となってしまっている。したがって、昔なら僕らのような人間に頭を後ろから張り倒されていたようなガキの発言が大手を振って「権利」であるかのようにバラ撒かれることとなった。
そういう仕組に一定の効用があることは認める。そもそも、僕自身のこういう意見だって、その仕組がなければ皆さんに届きようがないからだ。しかし、僕は少なくとも僕に罵倒されるような「都内の無能な編集者」とか「通俗物書きども」について、それなりに当人が読んでどう思うかを想像して書いているけれど、そういう想像をしない人もいる。南京で起きた100人斬り競争だとか、あるいは広島で起きた原爆の炸裂だとか、こうした悲惨な事例を、それぞれ隠そうとしたり正当化したり、あるいは格好いいだの可愛いだのと書いて「シェア」してみせる無神経さには、どこの国や民族の人間であろうと呆れる他にない。
そういう意味では、人のやさしさや朴訥さだけでなく悪辣さやグロテスクさもバラ撒かれるようになった時代である。しかも、非常に簡単に膨大な量の発言がひっきりなしにバラ撒かれている。これについて、「良いこと」だけを活用すればいいという意見があるけれど、僕はそういう楽観主義を支持していない。ヘイトは放置することで知らない間に愚かな他人が毒されることになり、そしてみなさんご存知のように、たいていの愚行や犯罪は他人が引き起こすものだ。