Scribble at 2025-12-15 10:01:55 Last modified: 2025-12-15 10:19:12

印南一路氏については、僕が二十代の頃から意思決定論の分野で一般向けの本を書いた著者として知っていた研究者なのだが、母親の入院という機会に色々と高齢者医療の政策を調べていたときは、彼の『生命と自由を守る医療政策』(東洋経済新報社、2011)という著作を知った。

僕が、哲学系の人々による「医療哲学」だの「ケアの哲学」だのという湿っぽい分野が大嫌いなのは、おそらく彼の著作を読んでいた影響があるのだろうと思う。もちろん、当サイトではもっと前から、特に現象学系の著作をセンチメンタリズムだの、あるいは自分が死ぬ運命にあるという恐怖や強迫観念を誤魔化すための文学的な逃避行動にすぎないだのと評していたわけだが、しかしプラトンの時代からこのかた、そういう逃避行動は或る意味で哲学者の十八番あるいは「業」であったとも言いうる(そして僕の見立てでは、宗教とはまさにこの逃避行動や気晴らしの儀式化・習慣化・形式化である)。

それゆえ、医療政策のようにソリッドな議論と、僕らが自分たち自身の生活なり人生で接する具体的な医療や福祉の経験なり知見という、都内の編集者が大好きそうな表現を使うなら「手触りのある議論」とを十分に咀嚼したところから出発するような医療の哲学が志向されてよいと思うようになった。もちろん、だからといってリアバタリアンのような、未熟な計算だけでものごとを片付け解決しようとする「理系」のお面を被った人でなしどもの議論が望ましいと言いたいわけではないというくらいの予断やイデオロギーによって支配されるべきだとは思っていて、僕はそういう意味では「両論併記」のような立場を認めていない。僕が愚かな議論だと思うものは、敢えて粉砕するために吊し上げておくのはよいが、併記して読者に判断を委ねることが公正な態度だとは思っていない。それくらいのコミットメントをしないで、何が保守の思想家であろうかというくらいの気概はある。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


共有ボタンは廃止しました。他人へシェアしてる暇があったら、ここで読んだあなたが成果を出すべきです。