Scribble at 2025-11-21 17:08:28 Last modified: 2025-11-21 17:12:01
このところ死生観についての本も、どういうわけか続々と書かれるようになっているらしく、ベネターの祖述であろうと、あるいは他の脈絡で死生観を扱うのであろうと、一定の顧客を獲得しているらしい(そもそも、「商品」なのであるから、顧客を見込めない本を出版する余裕なんて日本の大半の出版社にはないだろう)。
当サイトで公開している論説だけに限らず、他の色々な話題についても、書店で見かける新刊書のタイトルだとか目次から刺激を受けるていどのことはあるのだが、一口に言えば素人や若者向けの雑な議論が多く、また大半の議論は「カマトト」の議論でしかないという印象が強い。論じている当人が何らかの病気に罹患していたとしても、結局は既存の宗教と同じく恐怖なり強迫観念に対する気晴らしとして書かれたとしか思えないようなものもある。まったくもって、自分自身の思考や生き方に適用するという発想が基本的に欠落しているわけで、このような箱庭趣味的に哲学を論じる「性癖」あるいは「業」と言ってもいいような哲学との向き合い方(というよりも、正視していないという皮肉な意味での向き合い方なのだが)が当然のようになってしまったのは、いったいどうしてなのだろう。もちろん、だからといってアマチュアや坊主などがきちんと哲学や思想と向き合っているなどと倒錯した御伽噺を語る意図はない。日本の独立研究者やアマチュアなんて、僕が言うのも変だが、それ以前の問題が多すぎると思う。
たとえば、「死は悪いことか」というテーマについても、それにどういう定義を与えるにしろ、それは常に誰かの死について語ることでしかない。そして、その一つの事例が自分自身についての死ということになるわけだが、自分自身については自ら客観的に観察することができないし、実際に死んだ状況を自分で観察するどころか、経験することすらできない。経験とは、「経る」という言葉が示すように、或る体験や状況を「経た」うえで何を知ったり感じることに意義があり、或る状況を経た後に経験の主体が無くなってしまえば、そんなものは経験とは言えない。というか、それが当人にとって経験と言えるかどうかを議論すること自体がナンセンスであり時間の浪費であろう。
あるいは、一般論として死が悪いことであるかどうかを議論すると言っても、その判断どころか死という観念すらない乳幼児の死については、同じく当人には善悪の観念もないのであるから、これは他人が語ることでしかあるまい。そして、僕はそういう話題において、他人が乳幼児自身にとっての死が良いか悪いかを語ること自体が、はっきり言って無責任なことだと思う。変な言い方だが、科学哲学者として道義的におかしいと思う。