Scribble at 2025-11-11 15:09:53 Last modified: 2025-11-11 15:18:57

ドゥルーズでもヘーゲルでもウィトゲンシュタインでもいいけれど、若者の評論家や哲学プロパーの書いているものが、たいていにおいて表面的な「格好良さ」だけで終わりがちなのは、なんだかんだ言っても地に足が着いていないという昔ながらの、そして常識的な感覚が拭えないからだ。

加えて、そういう人々の書いているものは、これまた殆どの場合に、哲学者にとって一つの「資質」と言ってよいほどの執拗さに欠けており、まるで2ちゃんねるや X のイナゴみたいに一過性の熱病とでも言うような調子で心身問題や AI といったナウなテーマを取り上げては、颯爽と去っていき、だいたいにおいて二度と同じテーマに取り組まない。続編となる著作が出版という事業にかかわる事情から企画としての採用を退けられているとしても、たとえば今ならプライベートにブログ記事を書いたり arXiv や PhiSci Archive へ投稿してもいいのに、やろうとしない。そうして、たかだか1冊の本、しかも新書や選書の類を書いたていどで終わってしまう。

僕は、こういう人々はイージーなアナロジーや思考実験だけで哲学し、ものを書いているとしか思えないんだよね。僕も、若い頃はフランスの現代思想にかぶれていて、かなり荒っぽい議論をアナロジーだけでやっていたことがある。まるでスペンサー・ブラウンのでっち上げた記号操作みたいなものを自力で考案して、「意味構成の理論」などと言い張っていた時代があった(学部に入学する前のことだ)。いまでも、書店で見かける若手のナウでイキった批評や通俗本の類にも、やはり似たような(天才肌と言うにはあまりにも雑な、人生経験どころか自分自身にすら適用したことがない認識論の理屈を想像や類推だけで組み上げたような)印象を覚える。しょせん、東大の演習で出すレポートか、せいぜい卒論みたいなものを、都内の出版社がありがたがって出版しているにすぎないという気がする。

いや、ほんとに彼らは二度と同じテーマで書こうとしないし、プライベートなブログを立ち上げてすら公にする気がないみたいなんだよね。もちろん、哲学は結局のところプライベートな営為であって、他人に納得してもらうようなことなんて本当は一つもないのだが(しかし、それを所与の、そして公の言語なり認知能力の範囲でやる他にないというところに困難があるのだろう)、必要に応じて理解してもらう必要はあるため、他の学科と同じく学「術」としての所作があってコミュニティもつくる。そして、本を書いて出版するということも、そういう難しさゆえに必要な範囲でやることの筈だが、どうも僕が当サイトで取り上げている人々には、この手の、優秀なら学部生でも分かって弁えているようなことが分かっていないらしい。

もちろん、それだけをもってして、通俗本を書き殴る若手のプロパーが無能だと言うつもりはない。無能というよりは、寧ろ良し悪しは別として、彼らは平凡なのだ。凡人には、良い悪いもない。決して皮肉で言っているわけではなく、「無能なウナギ」とか「優秀なカマキリ」がいないのと同じ程度にウナギやカマキリの個体がおおむね凡庸であるとして、それだけをもってウナギやカマキリを非難したり冷笑する理屈が成り立たないのと同じである。(という、こういう丁寧な説明こそが何かの当てつけに思える人もいるのだろうな。)

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