Scribble at 2025-10-18 18:59:55 Last modified: 2025-10-20 07:56:09
もちろんだが、自覚はないし、自称したり自負してはいないにしても、事実上のフェミニストと言われてもおかしくないと思っているので、英米の「女性哲学者」について書かれている翻訳書が出たのは知っている。もちろん、「女の哲学」だの「女性のための哲学」だのという、得てしてマスコミ受けするだけの倒錯した駄本に比べたら、こういう本が(原著において)出版され、そして日本語に翻訳までされているのは、いちおう喜んでよいこと、そして訳者や出版社を称賛してよいことなのだろうと思う。
翻訳者や編集者、そして一つの出版社だけで何か社会を変革するようなことをやれるわけではないし、そういうことを期待するのもおかしな話なので、もちろんだが一過性で終わるキワモノの読み物として読書リストに掲げられるだけで終わったり、あるいは周りの女性にイキって見せるアイテムとして書庫へ飾るだけで終わってはいけないわけである。ただ、現実にはこういう本が原著で続々と出版されたりはしないし、翻訳されたりもしない。なので、やはり一般向けの本だとか概説書の一章として、自然、必然、当然のように埋め込むのが正しいのだろうと言いたい。(ただし、わざわざ一章としてページを割くのではなく、自然とフェアなスタンスとして論述することが理想なのかというと、そうとも限らない。えてして、それは昔からある「寝た子を起こすな」という話になりかねないからだ。寝た子は、無頓着に寝てるなら、ぶん殴ってでも叩き起こすべきだというのが、保守思想家としての僕のスタンスだ。)
それから、やはりどうしても気になるのが、読み手に二者択一の話題であるかのような誤解を起こしやすい「もうひとつの」という形容だ。このような短絡が普及してしまうと、では黒人は? 身体障害者は? 大学に行けなかった人々(その中に女性が多くいたのは確かだが)は? などという疑問を掲げざるをえないわけである(大学の外にも「哲学史」があるというのは、プロパーにとっては異様かもしれないし、実証は非常に難しいが、ありえる話だ。もちろん、ここで僕は「独立研究者」なんていうインチキ野郎どもや、波止場の隠れた天才思想家みたいなマスコミの玩具を想定してなどいない。そして、当たり前だが、俺様のことだなどと恥知らずなことも言っていない。何度も言うように、哲学していることになると評価できるかどうかは自意識の問題ではないのだ。自分を「哲学者である」などと言っていようといまいと、そんなことは関係ないのだ)。はっきり言って、哲学をするのに男女の不公平を是正するだけでフェアなり平等が実現するという思い込みがあるなら、それは哲学に携わる者として学部生レベルだと言わざるをえない。