Scribble at 2025-08-23 14:24:54 Last modified: 2025-08-24 13:18:38

このところ、巷の書店では死生観やターミナル・ケアの本が次々と新しく並べられていたり、またエンディング・ノートの流行なども見られる。かたや、巷の書店で他の棚には「死は病気として治せるようになる」だの、テクノロジーで不老不死だのという本も並び、みなさんご存知のようにアメリカの IT 成金どもは続々と創薬や HCI のベンチャーを立ち上げて巨額の資金を投じている。もちろん、僕はこれらのどちらも「自己欺瞞」であると思っていて、一見すると無害かつ素朴に思える前者のような動向もまた、思想としては不愉快なものの類に入ると言いたい。

これらの両方が自己欺瞞だと思う理由は、しょせんどちらも「死」を自らで制御しうることだと錯覚しているからだ。後者の、テクノ右翼やテクノ楽観主義者どもの荒唐無稽な御伽噺が、ガチの科学哲学者という立場から言ってたわごとでしかないのは明白だし、保守の思想家という立場から言っても文化的に悪質で有害な思想であることは、当サイトで何度も指摘している。いまさら繰り返すまでもない。だが、前者のようにエンディング・ノートを付けたり、あるいはどこで聞きかじったのやら「哲学とは死の準備である」などと利いた風なことを口走る連中にしても、結局のところ、そんなことをして暇を潰していられるのは、まだ死んでいないからであるという明白な事実に加えて、切迫した状況にもないからだという重大な事実も忘れた児戯に興じているにすぎないと言える。

僕の実母は2018年に亡くなったのだが、体調を崩して入院した際に検査で見つかった身体の異変は、いまから思えば殆ど医者も手がつけられないような状態だったろうと思う。実際、いちどは手術を受けたのだが、腹を開いて様子を眺めた執刀医が30分もかからずに何もしないで腹を閉じたというのだから、末期あるいは秒読みの段階に入っていたのだろう。抗がん剤も受け付けず、次第に弱っていく母親はもちろん、毎日のように付き添っていた父親にしてもそうだが、彼らには死生観などというものを語ったり考える余裕はなかった。そのようなものを「正しく」考えるための準備や勉強などやっている時間は残されていないし、仮に僕と同じ程度に本を読んだり考えた末の素養や知識があったとしても、数ヶ月以内に死んでゆく人に対して何が言えるであろうか。また、本人としても何を考えられようか。実質的に死生観や生命論のようなことを考えることはあるかもしれないが、それらは岩波書店から出版するような類のことでもなければ、世田谷あたりのカルチャー・スクールで成金老人を相手に語るような類のことでもなかろう。そして、たいていの場合においては、亡くなる数週間や数日前から殆どこちらの会話に反応もしなくなる。要するに、エンディング・ノートをせっせと書き綴ったり、自伝を自費出版するような人々は、自分自身の死を前提に何かをしているようでいて、実際には何の切実さもない「死生観を扱う哲学者ごっこ」だとか、「事前に人として適切な準備を終えた、意識高い系の人物」を金と暇に任せて自意識プレイしているだけと言える。そして、そこには自分が死に向けてあらかじめ何事かを完遂できるという思い上がった傲慢な態度しかないわけである。

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