Scribble at 2025-08-19 10:04:47 Last modified: 2025-08-20 12:34:03

簡単な話、どれだけ解析学や論理学の勉強をしても(あるいは僕がしてきたとしても)、僕は、それから都内でクズみたいな論文を書いたりイベントをやってるきみたちのようなプロパーでも、フランク・プランプトン・ラムジーのような人物が得た知見なり知性に及ぶまでもないとは思うんだよね。でも、だから哲学するのをやめるかといえば、そんなことはない。結局のところ、学問、なかんずく哲学は自分が始めて自分のためにやるしかないことなので、自分が止めようと思えばいつでも止められるし、自分が続けようと思えばいつまでも続けられる。そして、その成果なり「意味」を問うたり納得したり諦めたりできるのは、自分自身しかいないわけである。哲学という営為のなんであるかを教えることはできないが、哲学するとは何であるかを伝えられるというフレーズの意味合いは、おそらくそういうことでもあろうと思う。

で、こういう場合に「到達する」とか「水準」とか「レベル」といった RPG 的な錯覚を引き起こす表現を使う人は多いわけだけど、僕は人の知性(少なくとも、そう呼ばれている何かが概念として議論できるとして)なり成果を、そういうラノベ的な発想で理解したり語れるとは思っていない。かつて、"levels of explanation" という論文を Mind だったか、どこかで読み、そして Owen だったかな、単著としても書いた人物がいたはずなのだが、こういうアプローチは典型的なアンカリングの錯覚だと思ったものだ。つまり、世の中に流通している言葉がありさえすれば、それは哲学においてとまでは言わずとも、何か議論できるものだという錯覚がある。でも、説明とか理解に「レベル」があるという前提をこそ疑うのが、僕の理解している哲学なのであり、その「レベル」を論理的な構造としてどのように定式化するかといった、分析哲学によくある未熟で傲慢な、つまりは子供の思考実験の類には呆れてしまうほかなかった。フッセルと同じ程度に論理学を学びもしないで気軽に分析哲学を「ロジック遊び」と侮蔑する肉体フェチども(いわゆる現象学のプロパーのことだ。M さんのようなプロレスおたくだけを指しているわけではない)とは違って、別の脈絡や経緯から、僕はそういう事情もあって分析哲学にコミットするのは思想としてヤバいと思うようになった。

ともあれ、僕らはラムジーとは違う。さきほど蔵書の『ラムジー哲学論文集』を久しぶりに手にとって、あらためて実感した。もちろん彼の成果には学ぶべきことがたくさんあって、同じような成果を出してみよと言われても、僕には無理な話である(そして、何度も言うがきみら都内のインチキ分析哲学者、あるいは軟弱科学哲学者にも無理だ)。でも、こうやって成果は表現されて翻訳されて残り、それをどのていど理解したり咀嚼したり活用できるかは分からないが、こうやって数千円の出費で僕の手元に置けるわけである。これは、たとえば中世なら考えられないようなテクノロジーや流通、そして庶民の生活状況の反映でもある(もちろん、僕は「下部構造」つまり生産関係や生産手段がどうたらとかいう短絡的な左翼の話をしたいわけではないが、確かにマルクスらの業績は何らかの敬服に値する影響を色々なところで色々な人に与えたのであろう)。そういう、ひとまずこれまでの人類史の中では大多数の庶民にとって「ラッキーな」時代に生きている一人として、その恩恵を利用しなければ勿体ない。大多数の境遇の人々が AI を安く使えるし、パソコンでゲームしたり株の取引をしたり、なんなら雇用主(会社)に黙って事業だってはじめられる。こんなのは、わずか半世紀前ですらできなかったことだろう。

僕は、ラムジーと同じことはできない。カルナップと同じこともできない。ウィトゲンシュタインと同じこともできない(たいていの人は健常者なので、やりようもないが)。でも、それがどうした。

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