Scribble at 2025-08-15 17:55:50 Last modified: 2025-08-15 18:59:24
しょーもないレベルで哲学をやっている人々が信じる安っぽい矜持とやらによれば、時勢に乗っただけの話題を取り上げることは、低俗であり、避けるべきこととされる。そのわりに、きみたち無能なプロパーは「サバイバルの哲学」だの、小平の高速道路がどうの、勉強がどうした、哲学論争史がどうだ、ジョークだドーナツの穴だと、マスコミに着目されて書籍やテレビ番組のネタや国会のなんとか委員会の話題になりさえすれば、そうした矜持とやらを(安物であるがゆえに)簡単に窓から放り投げる。僕は、こういうありさまを「自己欺瞞」と呼んできた。それは、自分が口にしている「認識論」とか「存在論」とか「批判的思考」とやらを、自分自身の哲学的な知見やスタンスに当てはめもしないでミニチュア庭園のように愛でているだけの馬鹿から、単に自分が言っていることを出版社や学内派閥や助成元との利害関係だけで簡単に無視したり軽視したり過小評価するような手合にも通じる話である。こんなことは、きみらが哲学とやらを講じている相手の学部生ですら理解できるような話なのだが、そうした学生の大半が教員の研究内容になんて何の興味もないのをいいことに、利害関係が一致している集団として知性の下方圧力をかけ続けているのが実態であろう。そら、科学哲学の業績としても、半世紀ほど遅れていたと思える BRICS 圏の研究者などに先を越されているのだから、あたりまえと言うべきだ。
でも、実は世俗的な話題をもてあそんで小遣い稼ぎをしているという意味でも、我が国のプロパーは悲しいことに世俗化すら不徹底である。日本科学哲学会の ML に関連のある内容で通知がくることはあるが、たとえば blockchain だとか differential privacy だとか diffusion model だとか quantum computing だとかいった話題について、それこそ自分たちでは「数学や物理が分かってる哲学者の一団」だと思い込んでいるくせに、ロクな業績を上げていない。博士論文のテーマとして暗号論や AI を取り上げる人は増えているけれど、結局は哲学としての議論ができておらず、技術的な内容を哲学っぽい論点に当てはめて悩んで見せるという程度の低いパフォーマンスを繰り返しているのが実情だ。もちろん、これは GPT の哲学などと言っておきながら何のまともな業績も出していないアメリカの科学哲学者にも言える。おそらくは日本の10倍以上は研究者がいるはずのアメリカですらこうなのだから、ひょっとして科学哲学って、ファン・フラッセンが40年前に「自己増殖的」と呼んで冷笑した話題しか語ることがないアプローチなのかと思ってしまうほどだ。もし、竹尾先生がそういう予感から、敢えて「科学哲学者」を名乗らずにいたのであったなら、なるほど慧眼と言うべきだ。でも、僕はそういう逃げ道を作るつもりはないから、いまでもアマチュアではあるが科学哲学の研究者を自称している。