Scribble at 2025-08-08 09:13:52 Last modified: unmodified

古典を研究する一つの目的なり効用とは、発生論的な議論や思想史的な議論、つまりは社会科学的・心理的な所与とか経緯とか事情という条件を差し引いても「濾し取れる」ような理屈があるかどうかを見定めるためだと言ってよいはずだ。

たとえば、僕は学部時代に法学部の学生ではあったが、ヒュームについて卒論に相当する文書を書いて(法学部には卒論を不要とするケースが多く、実際に僕は卒論は書いていない)、関西大学の修士(博士課程前期課程)を受けるときに、竹尾先生に卒論相当として「ヒュームの関係概念」を提出した。当サイトで公開している文章がそれである。もちろん、僕は標準的な学生よりも2年ほど遅れて学部を卒業したので、先に関大や京大の大学院へ進んでいた高校の同期から、「誰それの何とか概念について」といったタイトルのテンプレ論文を書くのが習わしであるかのように聞いていたので、そういうフォーマットに沿って調べたり考えるのも一つの訓練であろうと納得していた。

それでも、そもそも何の哲学、あるいは誰の哲学を学ぼうと、他人の考えていたことを正確に、あたかもハード・コピーのように思考の内容を写し取ったり、あるいは別の言い方なら著者の思考をエミュレートするという発想は妄想であると思っていて、もちろんこれは僕が分析哲学や科学哲学よりも先にデリダやフーコーを読んでいたからなのだが、それでも古典の読解なり研究には意義があると思っていた。読解について、そもそも自分自身や他人の成果を議論したり検討するということは、つまるところそれらの読解に成否があるという仮定を立てるということでもある。だが、著者の言葉の意味を正確に確定したり固定できるという妄想を理想と掲げて、そういう理想への漸近度によって成否を議論することは、自己目的化した不毛な議論でしかないとも思っていた。

しかし、僕はポストモダンの洗礼を受けた人々の多くが口にしていた価値相対主義とか、「言葉の意味なんてどうでもよくて、表現はウケれば勝ちだ」と言わんばかりの、博報堂のコピーライターさながらの軽薄な連中にも頭にきていたわけで、これはもちろん僕がかつては分析哲学の学生でもあったからだ。その当時、浅田彰氏の『逃走論』がよく読まれていて、最近になって復刊さえされたけれど、あれが本来は「闘争論」であることを受け継いだ読者がどれほどいたのだろうか。「テクストの外部はない」などと言いながら、馬鹿げた読み方で「現代思想」の理解者を気取っていた連中なんて、特に建築では明白だが、愚劣で馬鹿げた建物を乱造して公共事業を食い散らかしたり、地域の景観を破壊した文化的な犯罪者にすぎなかった。そして、この程度の範囲で読解の成否を語ることは、文化として思想や哲学に携わる他にない有限のわれわれにおいて、ベストではなくともベターだと思える成果や立場や態度にコミットするチャンスにもなろう。

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