Scribble at 2025-07-02 12:48:58 Last modified: unmodified
「宣言」は、竹安栄子学長名で出された。「女子大学という環境だからこそ、性差にとらわれることなく、一人ひとりが対等な関係の中で学び合い、自立した〝人〟として成長することを可能にします」と主張し、「女子大学として社会の変革に挑戦する〝人〟を育成し続けることをここに宣言します」としている。
先日、武庫川女子大学が共学化すると報道されて、多くの在校生や卒業者から反対の意見が出ているという報道を見た。正直、この手のことは反対する人の方が積極的にソーシャル・メディアで投稿するから、「反対の動きがある」という雑な印象操作だけで語ってはいけない。ちゃんと、どれくらいの在校生や卒業者が反対するなり賛成するなり自分の意見をもっているのかを調べたうえでないと、武庫川女子大学のステークホルダの総意がどうであるかは分からない。なので、僕は武庫川女子大学の共学化について是非を語るつもりはない。
それから、上の記事で紹介されているような「女子大宣言」なるものにしても、ジェンダー平等の観点から賛同する人もいれば反対する人もいるわけなので(「女子大」こそが人を「女」という枠に縛る温床であると思う人もいるからだ)、一概に是非を語るのは難しい。
とは思うものの、確かに宣言している人々が言うように、いまだ女性は圧倒的に男性が有利な状況で気楽にしているところを乗り越えないといけないので、なにごとかを学ぼうという女性に、不合理な状況へ追いやらずに学問へ接する機会を確保する必要があるというのも道理だと思う。そして、学問の世界に身を投じたとしても、なかなか就職も難しいのが現状だろう。実際、いわゆる「分析哲学」や「科学哲学」の教員に占める男女の比率なんて(というか哲学全般だろうと、あるいは他の分野を含めてだろうと)、昔も今も圧倒的に男が多いわけである。それに、女性どころか LGBTQ に至っては殆ど科学哲学の教員に(少なくともカミング・アウトしている人物としては)いないだろう。哲学するのに何の関係もないのにだ。いや、ほんとに。僕は保守の思想家という自覚があるけれど、男女どころか性差について何か「男はここ、女はここが」などと個別のタスクや能力について性別ごとの優劣を測ること自体がナンセンスだとしか思えない。ちんちんがないと科学哲学できないの? タンポンを使ってると分析哲学の思考ができないの? いや、そもそも性別が分からない人には哲学として何も問うことができないんだろうか。少なくとも、研究者の養成なり就職として考えてみても、まだ女子大にはガラスの天井がないだけ存在意義があるというのも理解できるわけである。