Scribble at 2025-06-29 23:09:16 Last modified: 2025-07-02 07:45:01

ホビーというのは、もちろん個人の趣味として古くから色々な人たちが色々なことをやってきた。それこそ、散歩だったり、牛乳瓶の蓋を集めたり、マンホールの蓋を撮影して回ったり、列車を撮影したり、玩具の車を集めたり、テニスだったり、いわゆる「推しグッズ」を買い揃えたり、Zippo のライターを集めたり、廃工場の見学だとか、例を挙げるときりがないし、そうする必要もあるまい。そして、目的なり動機によって趣味としてのタスクなり達成度合いなども異なるだろうし、もちろん人によってはゴールなど決めていない人もいると思う。また、決めたところで達成不能なことが多いと思う。マンホールの蓋なんて世界中にいくらでもあるわけで、財産を投じて世界中を歩き回っても全ての蓋の写真を撮影することはできないだろうし、いちど訪れた地域に新しく備え付けられても、その一個のためだけに再び同じ地域を訪れる時間やお金があるとは限らないだろう。また、日本中の縄文土器を撮影して図録を作りたいと思っていても、恐らくこれから大量に発掘されるであろう土器(たとえば100年後に出土するかもしれない土器)は撮影不能である。そして、こういう制度化されていない趣味の場合は基準や精度が決まっていないし、たぶん決める必要を感じていない人が多いだろうから、当人の不勉強や無頓着や注意不足あるいは認知能力の限界といったことまで含めて、趣味にかかわる「完全無欠」という観念には大して根拠も可能性もないし、議論する意義も感じない人が多いだろう。そして、僕は趣味というものをそうであってよいと思う。

なので、趣味にかかわる雑誌などでいくらでも高い基準を掲げて読み手に何らかの不安を感じさせて、あれこれと買い物させようとするのは、それを否定する理由はないにしても、有意義なことだとは思えない。たとえば、『ASCII』という媒体はパーソナル・コンピュータのマニア向け雑誌として出発し、いまでもサイトではマニア向けの記事を公表していて、僕は8ビットのコンピュータを使い始めた45年くらい前から『I/O』のような雑誌と共に愛着をもって接してきた。でも、正直に言わせてもらえば、こういう雑誌を読んで何百万円のパソコンを組み上げようと、読者の中から生成 AI ベンチャーで成功を収めるような人物は出てきていないと思うし、情報科学の大学教授になれる人も出てこない。それどころか、僕のようなレベルのウェブ・エンジニアすら殆ど育たないだろうという意味では、産業的な価値はゼロだと思う。それは、やはり趣味の雑誌であって、僕のようなプロのエンジニアにとって勉学という意味でも、就職という意味でも、あるいは仕事に就いたあとでも役に立つような水準・内容の記事ではないからだ。

『ASCII』の記事を読むために離散数学や確率論を勉強している必要はないし、電子工学や半導体物理学の初等的な勉強をしている必要もない。そんな知識を要求する雑誌なら、誰も買わないだろう。それでも、パソコンを趣味として楽しむことはできる。もちろん、それが「低レベル」で無意味な活動だと言いたいわけではなく、趣味とはそういうものなのである。誰に評価されたり良し悪しを言われる筋合いなどない類のことがらであって、人によっては財産を失うほど熱意を入れたり、あるいは家庭崩壊なんて事例もないわけではないから、宗教や博打と比べて優劣を競うようなものではないが、それらと同じ程度に人を後ずさりさせるに十分なリスクがある。僕にしても、18歳で東京に出たまま雑誌の編集者などを続けて、大阪へ戻って大学に入ることなく働き続けていたなら、これだけの本を買ったりはしていないかったと思う。単純に想像するだけでも、核家族が大阪に住める程度のマンションが買えるくらいのお金は本を買うために投じてきた覚えがあるから、人によっては著しい散財というものであろう。これが学者を志す一人としての投資や責務ではなく、ただの趣味による蔵書であるなら、たぶん常識的には「浪費」の類だと僕も思う。

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