Scribble at 2025-06-03 07:21:41 Last modified: 2025-06-04 19:04:52

一見すると反知性主義的な暴論を書いているように思うかもしれないが、生物学や人類学や社会学を学べば、哲学が「文化」の一部であることは疑いようもないわけで、敢えていうが人の生活あるいは生存にとって哲学することは必要でも十分でもないし、「善く」生きるためにすら同じことが言えると思う。これを、大学教員になれなかったドクター崩れのたわごとや僻みとして読みたい方がおられるのも承知しているし、あるいは何らかのコンプレックスを和らげてくれそうな、凡人や無能の応援歌みたいに読みたい方がおられるのも承知しているが、しょせん僕から見ればどちらも未熟な人間にすぎない。

無論だが、標準的な就職活動も無視して二十代の大半の時間を勉強や学術研究に費やしてまで哲学にコミットしてきた一人として、自分が関わっていることを「そのていどのこと」だと卑下するようなことはしない。何度か書いているように、僕は哲学プロパーのエッセイによくある、「哲学は外道なり」みたいなスノッブのパフォーマンスは大嫌いだ。そんなことを書いたくらいで、「私は東大文IIIすら卒業していない馬鹿や民衆に寄り添ってます」的な言い訳になると思ったら大間違いだし、そんなことを言ったくらいで世の中の機微を知った、読書だけで生きてきたわけではない人間像をアピールできるわけでもない。要するに、どう考えても自分自身の動機や目的のためにやっている哲学について、他人に何らかのアピールや申し開きが必要だと思っている時点で、その人は他人からどう見えるのが格好いいかという自意識でカントやウィトゲンシュタインやドゥルーズや圏論について考えたり語っている自己欺瞞に陥っているだけの話である。

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