Scribble at 2025-02-02 10:35:31 Last modified: 2025-02-02 14:05:25

いま現在も、机の上に乗せてある棚には小関清明氏の『鹿持雅澄研究』が置いてあるし、この本に再録されている「鹿持雅澄の『幡多日記』について」という論文のもとになった論説が発表された『和歌文學研究』という雑誌すら一緒に置いてある。なお、『鹿持雅澄研究』に再録された論文と元の論文とを比較すると、再録にあたって多くの箇所が改められていると分かる。もちろん小関氏の著作はプラトンやカントのように精密な原典研究が必要な文章ではないけれど、もちろんやろうと思えばできるわけで、こういうところにも学問の限界なり実務的な割り切りというものがある。そして、現実には殆どの研究者の論文や書籍というものは、人文系だろうと社会系だろうと自然系だろうと、他人からそういう原典研究を必要とするほど厳密な扱いを受けていない。同時代に生きていて著者本人に質問するチャンスがあるという好条件にあっても、そんな必要、つまり古典的な著作や業績を残した大学者や大思想家と比べて、たいていの研究者の著作物にはそういう必要を誰も感じないからだ。これは、もちろん高等教育や学術研究が「民主化」されて金持ちや貴族のガキだけがアクセスできる情報やスキルではなくなったという、ひとまず「良い」状況の反映でもあろう。しかし他方で、もはや大昔のギリシアやヨーロッパとは違って、僅かな人々同士の濃密なコミュニケーションで学術や知識が醸成されていったようなプロセスはなくなり、平たく言えば情報処理の分量を追うのが研究者の目標になった。インパクト・ファクターのような指標やジャーナル・アカデミズムといった実態は、そういう状況の反映と言えるだろう。

しかしながら、そういう状況とはひとまず密接に関わっていない立場とか活動というものはあって、僕が考古学を学んでいた頃に森浩一先生から教えられた「町人学問」と呼ばれるものは、そうした独自の基準や関心や脈絡で成立する活動のことである。したがって、昨今の出版業界で(出版業界でというのが皮肉な話なのだが)盛んに唱導されている、「独立研究者」などと呼ばれているインチキ学者や捏造学者どもというのは、要するに日本のマスコミ・出版業界が学術研究コミュニティとは別の基準で知識や情報に関する「もう一つの権威筋」をこしらえようというスケベ根性でしかない。なんで出版社がそういうことをするのかというと、もちろん本や雑誌を売るためだ。マスコミや出版業界、それから最近では「メディア」と自称している都内のチンピラどもが勝手に自分たちの都合で「学者のようなもの」を知識や情報の新しい権威であるかのようにセールスして馬鹿な都内の大学生や田舎者に「巣鴨の知の巨人」だの「脱サラで学問に身を投じた分析哲学の若き俊英」だのといったフレーズを並べて広告を展開すれば、秋元商法と呼ばれたような手法と同じく、「手が届くアイドル」よろしく、馬鹿で怠惰な凡人に、ひょっとすると分析哲学っぽい文章をブログにでも書いておけば、勁草書房やみすず書房から本を出さないかと声がかかるんじゃないかという幻想に浸れるわけだ。

もちろん、勁草書房やみすず書房の編集者がそこまで馬鹿だとは思っていないが、「独立研究者」なんてものを自分たちで捏造して新商品のように売っている状況を何らかの仕方で批判できていない以上、彼らも結局は業界人として同罪だと言いたい。僕が、日本の出版社に何の気後れも配慮もせずに言いたいことを書いているのは、こういう理由もある。僕はパレートの法則を敢えて「防衛的偏見」と称して色々なところで使っていて、だいたいどういう業界でも8割はバカで無能だと思っているが、残りの2割は信用に値するからこそコミットしうると(わざと)考えているので、出版業界も同じである。

さて、実はここまでは余談である。

さきほど『鹿持雅澄研究』を眺めていて思ったのだが、MD では鹿持雅澄にかかわるページをいくつか公開していて、今後も鹿持雅澄の著作や研究文献を読みたいとは思っているのだが、やはり国学という不人気な思想の人物であり、鹿持雅澄という人物なり彼の成果を取り上げようとする研究者が出てこない。また、これまでの研究成果の多くは高知県内で発行されている『土佐史談』のような地方誌に集中しているし、地元で編纂・発行された文献の多くも他の都道府県の公共図書館や大学図書館では所蔵していないという課題がある。これが僕の関心にかかわる個人的な課題にすぎないのか、それとも公の学術研究にかかわる課題なのかはともかくとして、少なくとも僕には難しい状況である。

一例を挙げると、鹿持雅澄は若い頃に藩の仕事として土佐藩の西部へ出向いていて、その様子を自ら『幡多日記』という著作に残している。これの原本は、小関氏の著作によれば、雅澄の末裔に当たる人物が足摺岬あたりにある金剛福寺で保有されているようだ。もちろん僕は古文書を読み解く技能はもっていないので、実物を見る必要も資格もないのだが、その内容を写したという本があるらしい。上岡正五郎氏らの編集で、「幡多地区文化財保護連絡協議会」という組織が1977年に発行したものだ。もちろんだが、この冊子を所蔵している高知県のオーテピア高知図書館へ何度もメールで問い合わせして複写を依頼しているのだが、これまで5年ほどのあいだにメールを3通ほど送って、いちども図書館から返事が来なかった。メール・サーバのエラーもないし、こちらのメールアドレスが間違っていたりスパムとして除外しているわけでもないので、たぶん無視されているのかもしれない。そんなことで、公共図書館じたいに複写を依頼するのは無理だと判断して、いわゆる「クラウドお手伝い」のサイトで、高知県に住んでいるクラウド・ワーカーに依頼して、図書館で『幡多日記』を借りて代わりにコピーしてもらい、それを郵送してもらおうかと思っている。いまのところ、どういう人物に依頼すればよさそうかとか、あるいはコストとかを色々と見ているのだが、それとは別に、やはり一度くらいは現地に足を運んでみたいという意欲もあるので、そのときに自分で図書館で借りてコピーすればいいんじゃないかという気分もある。

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