Scribble at 2024-05-09 10:12:41 Last modified: 2024-05-09 10:18:35

日本でも「数学の哲学」とか「生物学の哲学」といった言葉だけは使われるし、実際に書店では何冊かの出版物の書名に使われているのを知っている。僕は、それらの言葉に関連する特定の学界ないし学会活動については分からないので、その動向だとか水準について具体的に批評する立場にはない。しかし、書店でそれらの言葉が使われているのは、大半が通俗本や一般向けの本であって、教科書や研究書は殆どない。したがって、たとえば僕の手元にたまたまある、フレッド・ウィルトの『発生生物学』(東京化学同人、2006)で解説されているような、いわば初等的な発生生物学の概念とか理論を扱う事例すら、「生物学の哲学」などと呼ばれている書物に見つけるのは困難だと言える。

同じことは、たとえば数学の哲学についても言えるだろう。Burgess とか、Muddy とか、このまえ亡くなった Persons とかの成果を踏まえた研究書を見たことは一度もない。そのくせ、やれ圏論と現象学とシステム開発がどうのと、およそ哲学的とは言い難いジャーナリスティックな切り口で本を書くような連中ばかり増える。

物理の哲学については、もちろん時間とか空間とか、馬鹿が手を出しやすい分野ではあるから、それらしい本は出ているが、はっきり言ってファン・フラッセンの翻訳されていない著作や Lawrence Sklar あるいは遡ってグリュンバウムらの著作などに親しんでいるわれわれからすれば、日本で出版されている「哲学っぽい物理の本」というのは、例外なく数式を散りばめただけの与太話の類と言って良い。

この他、例外的に木岡伸夫氏が著作を出している地理の哲学といった分野は、もちろん海外でも業績の積み上げが乏しい分野であるから、国内で著作が殆どないのは仕方ないわけだが、例外的に地理の哲学を標榜している事例を見つけても、その多くは期待外れなものばかりだ。要するに、昔ながらの記号論を振り回すだけの素人社会科学である。

なんでこんな話をしているかというと、もちろん科学哲学のテキストに応用分野として加える予定だからだ。ただし、統一科学的なイデオロギーの是非も取り上げる必要があるし、そもそも原則として言えば、僕は「分析哲学」が「分析」という言葉を削除するべきであるのと同じく、「科学哲学」も「科学」という言葉を(もし "scientific philosophy" を目指すのでない限りは)捨てるべきではないかと思うので、物理や数学や地理に特有のテーマがあるという前提で議論したり解説したくないという基本的な方針がある。しかしながら、冒頭の話に戻るのだが、だからといって大学の教科書レベルの概念や理論すら扱わないで、種だの遺伝だのという観念論というか大づかみな話ばかりしている生物学の哲学とはどれほどのものなのか、僕にはその知的インパクトというか、生物学という特定の分野に専心している目的とか動機とか意義とかを計りかねる。

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