Scribble at 2024-02-05 10:23:54 Last modified: 2024-02-06 07:47:59
国内でも細々と成果は出てきているので、カルナップの研究というのもこれからなのだろう。だが、彼の著書は翻訳だけでなく原著ですら簡単には手に入らないので、そういう状況をどうにかしようと思えば、やはり PDF などを共有するということになってしまう。著作権が切れていないというだけの理由で、既にアメリカの古本屋にすらあるかどうか分からないような著書を読む手段が限られてしまうのは、どう考えても著者にとっても不本意だろうと思うんだよね。
僕は海賊サイトの利用は勧めないし著作権法は守るべきだと思うけれど、著作権法そのものはもっと制限した方がいいと思っている。簡単に言えば、著者が死亡したら、その時点で著作権は失効していいと思うのだ。こう言うと、必ず「著者が生きているときに夜なべして内職しながら学者の研究を支えて苦労してきた家族に報いるために経済的な保証が必要だ」とか、「利益が少ないにも関わらず著者をサポートした奇特な零細出版社にも何らかの継続的な『ご褒美』がないといけない」とか、どういう小説を読んだのか知らないが、その手の清貧妄想だけで、かわいそうな家族や誠実な出版社の権益なんていう、著作権の思想と何の関係もない宮崎アニメみたいなファンタジーを根拠に有効期間をいたずらに引き延ばそうとする人たちがいて、ディズニーみたいな守銭奴どもはそういう妄想にもとづく感情をうまく利用して何十年も稼いでいるわけだよ。
でも、そんなことをしているあいだにみんな関心を失ってしまうのだ。現に、いま20世紀の前半にアメリカでよく読まれていた、ウィラ・キャザーという文芸作家の作品について調べているのだけれど、『グレイト・ギャッツビー』のプロットとすら言われたような作品を書いた(実際、後からフィッツジェラルドはキャザーに多くの点で plagiarism があったことを謝罪している)人物の作品ですら、ぜんぜん翻訳が出ていない。彼女の作品は、もちろんすべて public domain になっているので、やろうと思えば新潮社や講談社でなくとも、個人が自由に翻訳して電子出版すらできるというのに、英文学者や、あるいはガキのウケ狙いならいくらでも違法翻訳をやる、「道草」に集まっていたクズ翻訳家どもも、誰一人として翻訳しようとしないわけだよ。著作権を気にしなくてもいいはずの作品ですら、こうして長い年月が経過すると、権利なんて気にしなくてもいいはずなのに、誰も見向きもしなくなる。これでは、著作権法や関連する条約が、著作権は守っても著作物というコンテンツの生命を少しずつ奪っているのと同じことだ。
なので、たとえば岩波書店なんかは、もっと public domain になってる古典はどんどん翻訳を出してくべきだろうと思うね。翻訳するためのロイヤリティを払うくらいなら、翻訳する人々に支払うギャラを増やしたり、あるいは他の作品の翻訳に必要なコストへ回したりすることだよ。そうすることでも、「さぁ、public domain になった古典の翻訳はこれだけ充実しているというのに、いま多くの人々に読んでもらいたい古典的な業績を訳すために膨大なロイヤリティが必要な現状って、いったいなんなのよ?」という牽制材料になる。繰り返しておくが、僕は著作権法そのものがなくなればいいなんて言っていない。著作権の有効期間が不当に(これは知識や情報の共有という「大義」に対する不当さだ)長すぎると言っているだけである。零細出版社が発行した初版なり第一刷のコストを回収するのに時間がかかるからといって、そんなことを理由に著作権の有効期間を引き伸ばすというのは、出版業界にいた人間としても言えることだが、何か非常に歪んだものを感じる。
というわけで、カルナップの話に戻すと、もし著者が亡くなった時点で著作権が失効するとしたら、もちろん彼の著作はすべて自由に扱えるのだから、たとえば岩波文庫から Aufbau を出すのが妥当だろうし、竹尾先生も翻訳に加わって紀伊國屋書店から出ていた著作集(ちなみに、僕は関大に進学するときの口頭試問では将来の目標としてカルナップの研究を口にしたのだが、もちろんいまでも目標としては残してある)も安く復刊できるのではないか。やはり、研究する人が少ない理由の一つは、どう考えても著書が簡単に手に入らないことだと思うんだよね。以前も書いたけど、ライプニッツの研究者が少ないのは、何もライプニッツが広範な分野で実績を残した人物だからというだけではなく、そもそも彼の著作の大半が簡単に手に入らないからなのだ。2019年になって『モナドロジー』の翻訳が出るまでは、岩波文庫なんて主著でもなんでもない、わずか1点の著作が半世紀以上も前の翻訳でしか読めなかった(『形而上学叙説』のことだ。ちなみに『モナドロジー』が出ようと、ああした著作を今北産業よろしく「ライプニッツ思想の要約」であるかのように有難がるタイパ野郎に評価なんてされても意味がない。『モナドロジー』はライプニッツ自身が自分の思想について書いた very short introduction ではないのだ)、それ以外は非常に高価な著作集でしか読めない。あれでは高校生とかが気軽に読めないからこそ、書店に並んでる「サバイバルの哲学」や「秒で分かる哲学」の類だとか、半ケツの女子高生イラストが表紙になってるような類の通俗本しか売れないわけだよ。