Scribble at 2023-11-25 10:31:53 Last modified: 2023-11-27 11:54:21

この数年にわたって、さほど深刻にでもないし頻繁に考えていたわけでもないが、当サイトの運営方針あるいは僕にとって運営し続ける値打ちを改めて決めておこうとしていた。毎日のように更新しているわけでもないし、値打ちだの意義だのと言うほどのコンテンツもないわけだが、一定の運営コストはかけているわけだし、運営し続けるに値する(もちろん、「僕にとって」という尺度が最優先に決まっている。こんなことは、たとえ運営しているのがプロパーであろうと自己満足でしかありえないからだ)自分で納得できるだけの更に強い理由なり動機が必要だと思っている。

僕が当サイトで公言しているような、たとえば科学哲学の十分な分量と基礎的な事項を盛り込んだ概論書を手掛けてみたいという目標にとっては、別にウェブサイトを運営している必要はない。いまではプロパーでも自著のプロモーション・サイトを公開したりするけれど、そんなことは著作物の公表にとって必要でも十分でもないわけだし、やることをやれば黙ってアマゾンにでも成果を公開すればいいだけだからだ。

あるいは僕が修士論文でも取り上げたし PhD candidate としての研究計画書でも提出した(日本に qualification はないが、いちおう研究計画書を出した時点で名乗って良かろう)、probabilistic causation に関するコンテンツを提供するという目標についてはどうか。出版物としては "causal" なり「因果」なりという言葉を使った本は日本でも続々と出るようになったけれど、その殆どは統計解析や因子分析という話題を出ておらず、いわば情報科学的な応用の話ばかりである。また哲学においても因果関係を取り上げた著書は出ているものの、それらは VSI の翻訳にしても metaphysics という脈絡での通俗的な解説に終始している感がある。Pearl の著作は幾つか翻訳されているが、さほど読まれているという様子はない。そもそも、ここ10年以上にわたって、これだけ膨大な著書や翻訳が出ている機械学習や AI についてすら、実際には従来のプロパーが細々とブログ記事を書き加えているに過ぎず、市井のエンジニアや学生が広く話題にするようになったとは到底思えない。したがって、この話題を取り上げるサイトを運営する価値はいまでもありそうだ。しかも、IT ではないがネット・ベンチャーの本物のエンジニアでもある科学哲学者が扱うのだから、工学や情報科学だけでなくビジネスやリスク・マネジメントという脈絡でも議論できるのだから、それなりにユニークなコンテンツを提供できるという自負もある。もちろん、僕が堂島の会社の技術部長だからといって、そこらへんに掃いて捨てるほどいる無能なプロパーが書くものと同じ通俗化や「リアリティ」や「わかりやすさ」を期待されても困るが。

僕は、こういうサイトの運営者というだけではなく、企業のマネージャーとしても同じスタンスなのだが、コア・コンピタンシーと言ってもよい、自分が取り組もうとする分野なり仕事への興味とか熱意のようなものを持っていない人間に、それを持てと促したり教育することは不可能だと思っている。つまり、哲学に置き換えると、自分が何か世間で「哲学」などと呼ばれているような何事かに自分が興味を持ったり関連する著作物や議論を学ばざるを得ないと感じたりするような事情や動機や目的や理由を自分なりに持っていないような人に、哲学することを勧めたり、授業で「問題意識を持ちなさい」などと説教したところで、その人物の思索や議論を促したり、あるいは彼らに伴走することはできないと思う。それ以外は、どれだけ『嫌われる勇気』だの『お勉強しよう』だの『小平なんてクソ田舎に高速道路はいらない』だの『スケベイラストで描く哲学用語辞典』(こんなタイトルだったか?)が売れていようと、哲学っぽい本に目を通したという人々の身勝手な自意識を補強するような消費がなされるだけにすぎない。そんなことで何億冊の「哲学書」が売れようと、あるいは君たちプロパーが長野に書庫を兼ねた別荘を建てようと、哲学的には(社会科学的な意義としても、だが)全くの無意味である。もちろん、大学で他人にものを(なかんずく、「哲学」を)教えているくらいだから、君らはとっくにそんなことを承知したり達観している筈だと思うがね。

・・・とまぁ、なんでこのサイトを運営し続けるのだろうという気がしては、こういう文章を書いてみて、やはりそうだと自分で気づいたり思い直したりするということを、数年おきに繰り返していたりする。ただ、やはり最後の最後は自分がやっていて何か自分にとっても意味があろうと思うからでしかないというところに落ち着く。もちろん、ここで公表していることに社会的な値打ちや意義があるなどと臆面もなく言い張るほど厚顔でも傲慢でもないし、かといって通俗物書きのプロパーによくある、「哲学は極道でござい」だの、(実は talented を要する東大天才集団の)「役に立たないことにこそ意味があるのだっ」といった、隠れ選民主義者どもの自虐的なパフォーマンスを語るでもない。そんなもん、何を言っていようと誰だって数十年後には死ぬのだ。後に名声が残ろうと、あるいは君たちのパソコンに山程入っているスケベ動画が白日のもとにさらされようと、死んだ後のことなど(人類の存続も含めて)知ったことか。しかし、だからといってそれはデタラメに生きるということを意味してはいない。われわれは、自分自身の人生というスケールにおいて、刹那的に誠実かつ道徳的に生きるという選択もできる。どうしてその場限りの選択や行動が、なんであれ常に享楽的だったり犯罪的だったり堕落であるしかないのか。個々の判断で見通す影響や期待のスケールが、自分自身の生きているあいだに限るという思考をしても、それだけで「近視眼的」だの「(悪い意味で)刹那的」だのと誹謗されるいわれはない。

というわけで、当サイトのコンテンツにも、研究成果を所定のフォーマットでご覧いただくといった仕方だけではなく、MarkupDancing で公開している幾つかのページがそうであるように、何かを調べたり考えたり勉強してる様子として眺めてもらう、いわばアマチュアが何かやってる鳥籠みたいなものとしてコンテンツを提供してもいい。別におかしな性癖はないが、そういうのも僕自身は提供していて意味があろうかと思う。ただし、それは IT 系のブログ記事によくある「やってみた」式の未熟なコンテンツだとか、誰がどれだけ書こうと常に鳥羽口で終わってしまうような、子供が買ってきたばかりのオモチャでひとしきり遊んだ跡みたいなものではない。実際、そういうクズみたいな「やってみた」系の記事というのは、日本の若者は大好きなんだけど、海外の若手エンジニアが書くブログ記事では殆ど見かけない。海外でそういう記事を書いているのは、もっぱらサポートのサービスなどへ誘導するクロージングを目的にしたマーケティングのサイトである。でも、日本では若手のエンジニアがせっせとそういう記事を書いていて、その大半が話題のソフトウェアやツールのインストールまでで終わってしまい、それを使って君らはどういう成果を挙げたのかという話が、日本の技術者や学生のブログ記事には圧倒的に少ない。成果が知財だと思ってたり、何か他人に教えると困るような発明や発見だとでも思ってるんだろうか。おまえたち慶応や IT ゼネコンの無能がやることなど、アメリカの高校生だとか、インド人や中国人の留学生などが書く記事なんかと比較したら高校の自由研究レベルだよ。海外の若手エンジニアは、やろうと思えばプレプリント・サーバへ投稿できるくらいの内容でブログ記事を書いているのだ。彼らはそうした道具を使って自分が何をしたりできたのかを書くからこそ、読まれるし話題にもなるのである。せめてコンピュータ・サイエンス関連の修士をもってたら、そのレベルでブログ記事を書かないと、いまどき恥ずかしいぜ?

だが、そうした「やってみた」系のガキが書くものと僕がここで公開していくコンテンツは、表面的には違わなくてもいいのではないかという気もしている。要は、外形的にどうであろうと内容(結果)が全てなのだから。まさしくその結果で凡庸な日記や殴り書きみたいなものを圧倒していればいいのだ。バカは一つか二つの「やってみた」式の記事しか書けないが、同じ程度の記事を僕なら数百から数千は書ける。その分量の違いだけでも他を圧倒する自信なんて幾らでもあるからだ(でなけりゃ、還暦に近い大人が自分で有能とか言うわけないだろう)。ということで、このサイトで啓発とか教育とかシェアとか、そんなクソ道徳との距離感で運営しようとする気負いみたいなものは不要だし、そんなものはどれほど altruism を装っていようと「自意識」にすぎない。やりたいことをやってるだけという事実を隠す自己欺瞞だ。

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