Scribble at 2023-10-08 13:41:39 Last modified: 2023-10-08 13:45:55
philosophy of causation のプロパーが日本にどれだけいるのかは知らないが、少なくとも一ノ瀬氏が「三部作」で取り上げたような関心をもつ方は田村均先生や太田雅子氏など5人くらいおられるだろうから、ナンシー・カートライトが2006年に The Journal of Philosophy に書いた論文で、philosophy of causation という研究分野について明言した、雑感というか疑念のようなものをご承知の方はおられると思う。彼女が論文の末尾に書いた、"Perhaps we should be seeking not theories of causality but rather causal theories of the world." という論評は、得てして「科学」のスタンスに重心を置いてしまうことがある科学哲学者にはお馴染みの苦言みたいなものなのだろうが、しかしそれは「哲学」のスタンスをどのていど考慮してのものなのかが分からなければ、単に哲学嫌いの自然科学者(しかし、そう公言する割には熱心に「哲学」という藁人形をこしらえるのが大好きな人々)に対するリップ・サーヴィスでしかなくなる。
僕がかつて修士論文を書いているときに、竹尾先生からは色々な分野に現れる「因果性」の議論に広く目配せすることが公平で妥当な考え方を保証するとは限らないというアドバイスを受けたことがある(具体的にそう言われたわけではなく、そういう忠告を示唆するようなことを言われたというだけで、本意は違うところにあったのかもしれないが)。僕は、その当時は法学部出身ということもあって、ハートとオノレの Causation in the Law とかも視野に入れていたし、自然科学だろうと社会科学だろうと「因果関係」というキーワードが出てくる論点を色々な分野でサーヴェイしていたため、そういう苦言のようなものが出てきたのかもしれない。もちろん、そうした色々な分野で交わされている議論の多くが、既存の(しかも古臭い、または既に或る意味で解決された)哲学の議論を表装替えした劣化版なり程度の低い応用や通俗化(異なる分野への軽率は応用は「通俗化」と呼んでもよかろう)にすぎなかったりするのは分かっている。したがって、僕はハートの法哲学思想になんかは興味がなくて、彼がどういう哲学的な道具立てに訴えているのか(そして、それをどう理解して活用しているのか)に興味があったのだが、こう言ってよければその手の「フィールド・ワーク」を重ねたところで哲学的に興味深い議論はできまいというのが先生の示唆するところだったのかもしれない。まぁ確かに、個々の(哲学としては些末な)応用事例を集めることでしか議論できない時点で、哲学的な才能がないと自分で言っているようなものだ。哲学とは、そういう落ち葉拾いの雑用につけられた名前ではないというわけである。
ただ、カートライトが言っている "causal theories" とは、これまた「哲学的」にはそういう応用事例ではないのかという印象があって、どうも首肯し難いものを感じるんだよね。個々の causal theory の基礎になっている theory of causation を語らなければ、少なくともそれは哲学の議論とは言えない(「だから悪い」とは言ってない)。