Scribble at 2023-10-07 08:19:47 Last modified: 2023-10-07 08:38:45
これまでの自費出版というのは、故人の書き貯めていた俳句とか短歌を編集して知人に配ったり、あるいは地元の郷土史家が調査・研究の成果をまとめたりという典型的な事例で分かるように、自費で制作して自分で配ったものだ。これは昔ながらの辻説法と同じく、自分の足で立ってものを言うという精神から受け継がれてきたスタイルだが、もちろん現代ではそうした安っぽい精神論など吹き飛ばされてしまい、KDP だろうとオンラインの出版代行だろうと色々な方法に移り変わっていて、それ自体の是非を議論する必要も理由もない。
もとより「本来の辻説法」とか「本質的な自費出版」などというのは、そんな空語がわれわれ学術研究者の話題としてまともに成立すればの話だが、それらはせいぜいただの観念に過ぎず、したがって哲学者ではなく社会学者が弄んでおればよい些末な事実にすぎないからだ。そんなもんが厳密に言ってどう定式化できるのであれ、それで世の中が良くなったり自然法則が解明できるわけでもなんでもない。要は、ヒトの歴史なり文明ににおいて辻説法や自費出版が成立していなかったとしても、それで人類がとっくの昔に生物種として絶滅していたり、あるいは将来においてそれらの欠損ゆえに絶滅するなんてことは、およそありえないのである。これらは寧ろ、どういう意味においてであれ比較のうえでそこそこ「良い」社会の結果でしかなく、その原因ではないからだ。
表面的には、KDP のようなサービスが普及したことによって、公に自説を述べたり著作物として開陳することが手軽になり、したがって「イージー」になったようには見える。しかし、小学生の思いつきでアマゾンから自費出版するといった手軽さを現代の軽薄さだと罵るのは、それ自体が歴史の正確な理解を欠いた軽薄な批評というものではあるまいか。僕は「保守主義者」を任じているが、従来のマスコミ保守とか論壇保守などと言われてきた、自意識とパフォーマンスしか関心や動機がない物書きどもの妄言など、保守でもなんでもないと思うので、かよな「流行は(常に)軽薄だ」といったインチキな権威主義やデタラメな伝統主義には与さない。よって、現代の中学生が1年ほど調べたり考えて電子書籍を出版することと、江戸時代の坊主が思いつきで書き殴ったような古文書とを、真の権威とは異なる愚劣な、それ自体が軽薄な尺度で比べようとするのは、僕が考える保守の態度ではない。そういうのは、ただの懐古趣味だ。
もちろん、ここから更にすすんで過去の権威である古典の教え(とその現代的な解釈)と、おおよそ進展という概念を許容して良い現代の多くの知見とを単純に比較できないとも言える。しかしながら、そこには一定のコミットメントがなければ気楽で呑気な相対主義が口を開いて待ち受けているだけだろう。なんとなれば、過去に古典的な業績が成立した当時も、当事者たちにとっては過去からの進展だと見做せたからだ。そして、古ければ古いほど「良い」などという価値観に何の正当性も論証されたり実証されていない以上、個々の成果の評価は、僕ら自身の現代の尺度と、僕ら自身が理解したり解釈した上での過去の尺度とを、結局は現代の僕らの尺度として許容したり正当化できる何らの基準によって下す他にない。そして、そうした手順を本当に適正に踏んだ上であれば、単純に古いの新しいのというインチキな進歩主義やデタラメな保守主義が学術研究に口を挟む余地などあるまいし、そして皮肉にも相対主義ですら撥ね付ける堅実さが生じよう。要は、自分自身の生き方や価値観の話として話題を取り上げているのかどうかという、まことに単純で切実な話でしかないのだ。クズの物書き共は、要するに原稿用紙やキーボードの上でしか評論したり議論しないからこそ、デタラメな理屈だけを文字として吐き出し続けるのである。