Scribble at 2023-09-25 18:14:41 Last modified: 2023-09-25 18:16:18

凡人というのは(と、既にここでブーメランになりかけているのだが)ものごとを短絡化して区別するのが好きである。たとえば、「右脳型人間」と「左脳型人間」の区別、「理系」と「文系」の区別、それから「保守」と「革新」、「伝統」と「改革」などなど、ものごとを自分にも分かりやすいフレーズや尺度で理解しようとする。

とはいえ、これ自体は非難するべきことでもなかろう。それは、凡人にも配慮していい人ぶった善人としてふるまうためのお世辞ではなく、実際に生物の認知や知覚とはそういうものでしかありえないからだ。間違いだろうと錯覚だろうと、外界や自分の内心をこうだと決めた上で行動や判断に進まなければ、日本の社会学者や未熟な博物学者みたいに出会った事物を全て特殊的な何かとして扱ってしまうと、それこそ帰納推論もへちまもなくなるので、「正しく理解しなければどう反応すべきか決められない」というインチキ哲学者みたいな原則を守る限り、本能や反射を除けば意識的な行動など全くできなくなるだろう。

しかしながら、ポモがわざわざ「二元論的どうのこうの」などと名付けるまでもなく、こうした短絡が重大な過ちを引き起こすことは何千年も前から人類の叡智が心得ていたことであろう。よって、われわれ科学哲学に携わる者にあっても、「科学」と「哲学」の対比だの、あるいは「科学」と「疑似科学」の対比だのという区別は慎重に扱わなければならないし、可能なら無視しなくてはならない。なぜなら、われわれが学んだり研究対象とするのは個々の科学の分野なり研究者の業績であり理論であり、それらの定式化であって、たぶん「科学」などというお化けではないはずだからだ。われわれが「科学哲学者」を名乗るとしても、それは「科学」というお化けの研究者だと自認してのことではあるまい。それと同じく、疑似科学という概念はありえても、われわれが叩き潰すべきは統一教会や日本会議といった具体的な謀略組織であって、疑似科学(という概念)を社会から排除するなどというフレーズは単なるカテゴリーミステイクというものだ。

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