Scribble at 2023-09-23 15:23:02 Last modified: 2023-09-23 15:24:59
エピゴーネンという言い方で揶揄してはいるが、何か自分がものを考えるにあたって信頼すべき人物を決めて、その人物が議論する内容を基準にして自分でものを考えてみるという習慣なり訓練を続けるのは、特に人文・社会系では推奨されることであろう。それはすなわち(本来の)古典研究がそういうものだからだ。ただの古書にへばりついて「読書百遍、意、おのづから通ず」などと言っておれば世の真善美に到達するなどという妄想に取りつかれているのでもないかぎりは、古典を学ぶとはそういうものであって、われわれが『哲学探究』を読むのはウィトゲンシュタインと「フュージョン」(ドラゴンボール)するためでもないし、『存在と時間』の語句を読み解くのはハイデガーを降臨させるイタコか、あるいは某宗教団体の死んだ教祖みたいなものになるためでもないはずだ。ていうか、事実上でそれと変わらないことをやってる人々もかなりの数でいるがな。それが無自覚だからこそ、東大や京大の教授であろうと、こうしてアマチュアに無能呼ばわりされるんだよ。
ということで、たとえば僕は日本では殆ど話題にされていないのだが Henry Ely Kyburg, Jr. だとか Clerk N. Glymour とかいった人々の業績を基準にしたいと思っているし、そういう人々の業績を基準にすること自体はおかしなことだとは思わない。よって、日本でもユーラシアの歴史については加藤九祚氏の著作を紐解くことが多いし、もちろん考古学については森(匡史じゃなくて浩一)先生の本を基準にもとを考えたりする。
ところで、こういうことを書くと即座に「それでは不十分だ」とか「視野が狭くなる」とかいった反論が出てくる。そして、僕はこの手の反論について、理論的には正しいがゆえに「そんなことは最初から分かっている」という理由で取り合わないようにしているし、現実的には無意味な反論であるがゆえに、そういう脈絡でも取り合わないようにしている。つまり、理論と現実のどちらにおいても、そんな指摘は無効なのである(こういう場合に、理論と「実践」といった言葉をペアにして使わないと違和感をもつ人は、ただの左翼なので反省した方がいい)。
或るテーマについて本が10冊だけ出版されている状況で、9冊だけ読んでいる人に「それでは不十分だ」という理屈は小学生でも言える。しかも、その残る1冊が絶版であるとか稀覯本であるとか、あるいはイリイチ研究者や量子社会学者といったインチキ思想家どもが書いた、公共図書館にも入っていないような1冊で数万円くらいする本であろうとも、それらを読んでいないというだけで「不十分だ」と言われる。しかし、そのような指摘は、出版物の大半は読むに値しないどころか資源や ISDN 番号の浪費という点ですら犯罪的とも言いうるクズであるという事実を無視している。「それこそ、読まなければクズかどうかわからないことだ」という指摘も、同様に子供でも言える口ごたえにすぎない。世の中には、実際に経験したり知ること無く、是非を断定できることがらがあり、そしてそういう断定をしなければ人はまともな生活などできないのである。
簡単な実例を挙げよう。みなさんは排ガスや汚染された空気を吸って呼吸器の疾患あるいは端的に言えば肺癌になどなりたくなかろう。では、みなさんは往来を歩いたりどこかの建物に入るときに、目の前に漂っている空気を何かの機器で測定しながら歩いているだろうか。もしかすると、数分前に誰かがタバコを吸いながら歩いていたかもしれないし、車が酷い煙をあげながら走り去ったかもしれないし、付近に愚かな実験をやっている宗教団体があって毒ガスを散布していたかもしれない。可能性はゼロではない以上、もし長く生存することが重要であれば、誰であろうと目の前に漂う空気の成分を正確に測定しながら歩くべきである。だが、そんなことは誰もしない。やるのが面倒だからか、お金と時間がかかるからか。そんなことまでするほど危険な場所ではないと信じているからであろう。それが生活しているうえでのコミットメントというものであり、断定であり、話題によってはそれは「差別」と言われる。実際、外国人がいきなり訪問してきて、日本の生活についてインタビューさせてくれとインターフォンで話していたら、そんな話を信じる方がバカであろう。そういう連中が CNN のスタッフであるという可能性は1割もなく、たいていが偽のビザで入国した強盗だからだ。そして、そういう判断は差別だと言われる可能性はあるが、それは理論の話でしかない。現実の生活においては、われわれは「差別しない良い人物」であるために生活しているわけでもないし、都内の軟弱インチキ倫理学の学生に褒められたいがために生きているわけではないのだ。