Scribble at 2023-09-16 12:42:13 Last modified: 2023-09-16 13:00:07

いま文庫本や新書(「新書本」という表現は、どこかで見かけた気はするが殆ど使われないのが不思議だ)を整理していて、いわゆる生命倫理に関するタイトルも続々と古本屋へ売り払うダンボールへ入れている。正直、かなりの数の本は読んだつもりだが、僕自身の問題として脳死を考えてみると、それはもう他人が決めることでしかないなという結論しかない。それが妥当であろうとなかろうと、僕にとって不当に思えることであろうとなかろうと、棺桶の中から出てきて「それは違う!」なんて叫ぶわけにはいかないのだ。死んだ後のことなんて知ったことか。

そして、どうも哲学や倫理学や生命論などに携わっている人々は「私と時間」とか「私の存在と宇宙」だとか「死生観」なるものを語ったり考えたがるようなのだが、おもむろに「時間とは」とか「この宇宙にとって私の人生の意味とは」なんて言われると、もう読む気がしなくなる。まったくもって、中高生がノートの切れっ端に書きなぐってるラノベと次元が同じである。人の一生や人類の存続なんて、この宇宙「にとって」「意味」など「ある」わけないだろう。つまり、ここで括弧に入れた三つの点において自然は何の関わりももたない。自然現象である宇宙の存在なり成立「にとって」どうのこうのなんて観点を自然現象が神のように自意識を含めてもつなんていう妄想は、およそ宗教団体の教祖や原始人の呪い師、あるいは分析哲学者だけにしてもらいたいものだ。科学哲学者に、パソコンに愛称をつけて愛撫するがごとき愚行は無用である。そして、「意味」は無論だし、最後の「ある」とか「ない」とか言う判断も人のものであって、全くの仮定として人の文明がこの宇宙を(どういう状況としてかはともかく)破壊したり消失させられるとしても、宇宙がそれについて抵抗するとか「あり続けたい」と願うなんてこともラノベ的な妄想にすぎまい。

よって、死生観や脳死にかかわる著作は無条件に廃棄してしまうことにした。このようなことを考えるべきかどうか思案すること自体が時間と才能の浪費である。当サイトで公開している thanatophobia についての論説でも参照している、日高敏隆氏の『人はどうして老いるのか』(朝日文庫、2017)で明快に書かれているとおり、そして同じことは何百年も前から言われているわけだが、死ねば終わりである。何をどう怖がったり心配したり、あるいは自意識を AWS にアップロードしようとかなんとかもがいてみたところで無駄である。この手の話題を取り上げて、何か暇潰しに「思想家っぽい空想」だとか「哲学者っぽいお喋り」をしたいと乞い願っているオタクや凡人の相手をして小銭を稼いでいる都内の哲学教員や物書きにとっては意味があるのかもしれないが、われわれには無用の遊びであろう。それこそドラゴンクエストウォークでもやっていた方がマシではないか。

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