Scribble at 2023-09-10 18:46:34 Last modified: 2023-09-15 11:05:49

ただいま蔵書の中でも文庫と新書を続々と「処理」している。つまり、いったんは買ったものの、もういまから丁寧に読んでみても大して教えられるところがなさそうだと思えるような、概括的な本であるとか、あるいは主に小説の類だが、感受性なり想像性として教えられるところはあるにしても、それを読まなかったからといって人として致命的に何かを誤るとは思えないようなものは、読んでいようと一読したものであろうと、思い切って手放すことにした。

そういう本の中には、もちろん永井均『道徳は復讐である』(河出文庫、2009)のような「面白い本」もある。

確かに、永井氏はトマス・ネイグルの翻訳を初めて読んだ頃から興味深いスタンスの人物だなと思っているのだけれど、こういうスタンダードな哲学教員のスタンスから外れていると一般的に思われているような人物(それゆえ、そういう書き手を求める出版社から数々の通俗本を書かせてもらえるのだろう)というのは、それこそ昔から(本当に、プラトンの頃からだろうと思う)エピゴーネンが簡単に増える。通俗本を書くようになれば、いまやその数は古代ギリシアでエピゴーネンを従えていたソフィストらの比ではないだろう。そして、本人はまったく奇を衒っているつもりがなくとも、同じことをやり続けることによって商品価値が保たれる。

もちろん、永井氏だけではなく、小平の英雄とか、立命のお勉強君などに群がるこうしたエピゴーネンの 99.999% は、そもそも哲学する必要も動機も意欲もない読書家や学者ワナビーだ。そして、自分ができないことを代わりに、しかもエレガントに現今の学会の趨勢とは違うところで代行してくれる、「ぼくのさいきょうのおもちゃ」みたいなものとして、こういう「毛色の違う」人々を愛用するようになる。したがって、永井氏ら自身はやるべきことをやっておればいいわけだが、やはり彼らの書くものが単なる「哲学っぽいお喋り」の代行、しかも哲学をやるべき必要も動機もない連中の、学者になりたいとか、誰かに蘊蓄を語りたいとか、「新進気鋭の思想家」などと言われて長野県に蔵書専門の別荘を建てたいといった妄想を叶えてくれるシミュレーションになるほかはない以上、やはり僕らのような哲学者から見れば評価に値しないと言わざるをえない。

もちろん、こんなエピゴーネン連中が何かを他人に仮託しようとしまいと、無能の作為や不作為なんて当人においては単なる0の掛け算でしかない。よって、「悪影響」と見做して由々しきことだと難詰するほどの価値もないわけだが、それでも一定の資源の浪費には違いないし、当人だけにとどまらず周囲の人々に対する影響を小数点以下何桁かで想定できるなら、ゼロではないのであるから、こうして牽制するような文章を公に残しておくのも意味があろうと思う。永井氏のようなスタンスやアプローチは、本人にしかできないようなことである。よって、それを他人がせっせと読んで真似する意味も必要もないし、そもそも不可能なのだ。彼にはそういうユニークな(と思われている)スタンスによって、それこそ哲学としての業績を積み上げることが求められるのであって、この次元での茶飲み話を積み上げても、はっきり言って社会全体への影響度はゼロの足し算でしかない

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