Scribble at 2023-08-24 12:52:38 Last modified: 2023-08-24 16:18:42

先日の話について引き続き展開してみたい。その話とは、調べれば分かるようなことを学者、なかんずく有能な人材が時間や労力を費やしてやるべきなのかどうかということだ。これが、一定の手順とソースさえ与えたら誰でもできるようなこと(ここでの「誰でも」というのは、いちおう義務教育を終えたていどの人ということにしておく)なら、確かにそんな単なる調べ物は学生や書生(いまでも書生なんているんだろうか)に任せたらいい。だがそれは、学生や書生が怠けてデタラメに調べた結果なのかどうかを、受け取った成果を見て即座に判断できるような調べ物でなくてはいけない。

それから、調べたら分かるようなことに価値はないのかというと、いま「誰でも」と書いたし、その意味を義務教育ていどの素養がある人だと書いたが、実際には多くの人たちが調べ方というものを知らないわけである。いや、それどころか多くの人は自分がわからないことがあれば調べればいいという発想すらないからこそ X や LINE や YouTube でバラ撒かれているヘイトや陰謀論やネトウヨの噴き上がりを手軽なソースとして利用してしまう。よって、調べたら分かることに価値はないと言っているだけでは、やはり民度なり公衆の素養の底上げというものは叶わず、いつまでたっても日本の社会学者のように劣悪な状況を歩いてまわり、釜ヶ崎ではこうだ、沖縄はどうだ、AV 女優はこう暮らしているなどとセンチメンタルな文章を延々と死ぬまで書き続けることになるし、暇になったら小説を書くしかなくなるわけである。

もちろん、バカにするわけでもなければ、それゆえにパターナリズムで何らかの介助をしてやろうなんて高慢なことを言いたいわけではない。しかし、いつもここで書いているように、受刑者、ヤクザ、不良少年、AV女優、新興宗教の信者、いわゆるドキュソの主婦、そういった、ありていに言って「社会の底辺」にいる人々が科学哲学の成果にたどりつくというシナリオやストーリーが全く思い浮かばないようでは、君らがやっている「科学哲学」や「分析哲学」なんてものは、しょせん裕福な東大生だけを相手にした、適当に金のかかる与太話にすぎないということになる。むろん、僕は革命的プロレタリアートにも哲学を、みたいな、大阪でも唯物論研究会とかなんとか言って昔からやってるカルチャー・スクールみたいなものを思い描いているわけではない。身分が低かろうと貧乏だろうと、科学哲学するだけの事情や理由がある人がいてもおかしくないと思うだけであり、全ての人が科学哲学にアプローチできるべきだとか、アプローチしたほうがいいなんて馬鹿な話をするつもりはないからだ。なぜなら、端的に言って貧乏な人々や学歴の低い人々には、左翼や右翼が何を言っていようと、しょせんバカが多いのは事実だからである。しかし、そんなことを言っているだけでは空気に向かって「おまえは気体だ」と吠えているようなものだ。なんにも変わらない。よって、そういう境遇の中でもアプローチしうるチャンスを提供できる筋道がなにかあるといいなと思っているだけなのである。

そういうアプローチにはどういう手法が適しているのだろうか。一つには、調べれば分かるとは言っても、まず自分で調べたほうが有効だし納得できるといった効用を説得しないといけないし、調べて分かることを調べたなりに理解できるようにするには、調べてもらう側にも多くの人の脈絡に対応した表現が求められるだろう。だが、僕は昨今の出版業界で大流行している、イラストや漫画や動画を使った説明とか解説というものは、そういう表現技法を使うことによってどういう効果を正確に期待したり、あるいはどういう背景知識や動機をもつ人にとって分かりやすいのかということを、真面目に考えているとは思えないわけである。ただたんに、"scientific realism" だとか "universals" といった言葉をスカートの短い女子高生や幼女に語らせるだけでよしという発想しかないように思う。

と、ここまででもかなり辛辣なことを書いてるが、おまけとして少し言わせてもらうとだな、おまえたちみたいな二流の編集者や三流のイラストレータに学術用語とか学問で長々と議論されてきた論点なんて、1枚のイラストなんかに公平かつ正確に表現なんてできねーんだよ。そもそも。「今北産業」なんて軽く言ってるけど、実際のところは『存在と時間』や『精神現象学』や『資本論』をチラシみたいな本にまとめましたなんて言ってる連中は、学術研究が積み上げてきたコンテクストのそれこそ重層的な内容を短絡化する積木くずしを啓蒙と称してやってるだけのことであって、俺に言わせれば学術研究の歴史に対するただの冒涜行為でしかないわけだよ。だいたい、イラスト1枚見たくらいで「現象学的還元」とか「物自体」とか、本当に分かると思ってるのかね。もしそうなら、大学いらねーじゃんってという自己否定にしかならんわけだよ。長野に巨大な書庫を建てたような人物を始めとする、都内の出版業界が便利に使ってる物書きどもにあれこれ書かせておけば終わりということになる。あとはみんな、90分で分かる何々とか、ヘーゲル完全読解とか、そういうものだけ読んでりゃ終わりってことになるし、実際にそういう本は売れてるんだろうけど、さてこの国の民度とか知識とか教養の底上げというのは、いったいどれくらい進展いるのだろうね。もし本気でそんなことでどうにかなると信じてるなら、全ての都内の出版社が費用を出し合って、日本の社会学者に厳密に調査してもらえばいいんじゃないかね。そういう本を出し続けて、いったいどれだけの「意味」があったのか。

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