Scribble at 2023-08-20 09:58:37 Last modified: 2023-08-20 10:09:14
初等・中等教育でも大して教えていないし、更には高等教育ですらしっかり機会を設けているとは思えないのだが、本を読むときの note taking について全く考えたこともないという人が意外に多い。また、考えたこともなく必要も感じないせいで、そもそも note taking する「習慣がない」と言う人も多くいる。したがって、同級生や後輩、あるいはアルバイト先でシモーヌ・ヴェイユの著書をよく読んでいるという人物と話しているときでも、「ノートって取る必要あるんですか?」などと逆に怪訝な顔で聞き返されることすらある。
正直、もう100年以上も昔からだと思うが、中等教育から学部課程くらいまでは「勉強法」などと言われたり、院生からは「研究プロセス」などと格好をつけて呼ばれたりするが、要は何事かを学ぶにあたって有効と思われる作業や手順といった「実務」についての指導なり研修どころか、そういう実務があって必要だという紹介すらされずに大学へ入ってきたり、いやそれどころか卒業したりする人が多くいるようだ。
こういう人たちにとって、古典だろうと二次資料だろうと勉強や研究の基本は「読書」であり、読んだ内容を頭に入れて、その上で何事かを考察したり書き表すことが「研究」というものであるらしい。したがって、そういう読書を何冊かやった後に原稿用紙(いまなら WORD の画面)に向かっておもむろに卒論を書き始めることになる人も多く、資料の内容の整理もしていない状態で論文の構成すらないわけだから、手がつけられない。こういう状態で、レポートや論文を代筆してくれるサービスだとか、卒論のサンプルをテーマごとに読めるサービスだとか、あるいは ChatGPT で何をそもそもテーマにしたり論じたらいいのかを教えてもらうとか、そういうサービスがあれば飛びつく学生が多いのも無理はない。
critical reading なり note taking なり、あるいは論点の抽出だとか議論の構成とか、そういう実務こそが、或る意味で興味深く有意義な(楽しいとは限らない)作業なのであり、そして卒論を書いたりレポートを書く際の効用でもあると教える機会に接していなければ、そういう学生やアマチュアの人々に勉強不足だの思慮が足りないだのレベルが低いだのと文句を言ったり嘆いてみたところでなんにもならない。また東大を出ているからといって、暗記小僧がここで言う実務を果たして卒論を書いているとは限らないのだから、こういうことは偏差値とか大学の序列には関係のない問題だろうと思う。
実際、僕が関西大学と神戸大学の大学院で過ごした6年ほどのあいだで、その手の勉強や研究に使っているノートだとかカードの類を使っていた形跡のある先輩や後輩は、僕とは違って見せたくないのかもしれないが、教員も含めて殆ど見かけなかった。また、この手の実務についても関大で分析哲学を専攻していた何人かの先輩とは話をしたけれど、さほど具体的な道具とか手順といった内容ではなかった。
試しに小さな話題を一つだけ挙げてみると、実例になろう。
こうした研究や勉強の実務として、いま何度か書いたように note taking は有効だとされているし、僕は個人として必須だと思っているため、ノートの取り方には、それこそ小学生の頃から色々な工夫をしていた。当時は、ごまブックスという新書のシリーズで多くの勉強法とかノートの取り方という本が出ていて、いま文具店で「コーネル大学式」などと言っているものは、既に僕らが小学生だった45年くらい前には紹介されていて、僕らもノートの紙面を幾つかの区画に分割していたものだった。ちなみに、高校の後輩である宇治原くんらが書いたり喋っている話なんてのは、はっきり言って僕らの母校では山中伸弥さんも知ってる筈のスタンダードなノートの取り方や授業の聞き方であって、「宇治原式」なんて言ってるのは笑止としか言いようがない。おそらく、東大寺や灘や開成といったレベルの高校を出ている方なら、ノートを取らないとか、あるいは逆に教師の喋っていることを速記みたいに書き写すなんて馬鹿なことをする生徒がいるのかと呆れるくらいだろう。
さて、では何か本を読むときに「ノートをとる」とか「ノートをつける」と言っても、さてどうすればいいのやら分からないという人もいる。そのために、既に先人が多くの試行錯誤を繰り返していたり、あるいは否定的な結論が出ると分かっていても、他人を説得するために推論してみるといった手間をかけてくれているおかげで、僕らは無駄なことをせずに「実務」にとりかかれるわけである。まず、本を読んで何かを書き留めようとすることはあろう。しかし、いままで自分が知らなかったことをノートに「記録」しようとしてはいけない。なぜなら、そんなことをやりだせば、たいていの本は知らないことを知るために読むのだから、結果として写経になってしまうからだ。昔の寺子屋や私塾では、本当にそういう写経をやっていたし、手にとって読める「書物」というものが少なかったのであるから、なるほどそれにも何らかの効用はあったのだろう。でも、それは当の書物を基準にものを考えたり生きるという覚悟、つまりはコミットメントでもなければ、たいていにおいて無駄なことであろう。それこそアインシュタインの言葉として知られているように、調べればわかるようなことを記憶する必要はないというわけである。我々は、そこにどういうことに関連することが書かれていて議論されていたのかという関連づけを記憶すればいいのであって、内容や字句をサヴァン症候群の患者みたいに記憶へ写し取る必要など無い(仮に、そういう能力があれば、それに越したことはないのだろうか。たぶんそうではない。実際、サヴァン症候群の患者とか、いわゆる直観像記憶のような能力があっても、それだけのことで大きな業績を上げた人はいないからだ)。
したがって、読んでいるときに「これは知らなかった。よし書き留めておこう。あとでなにかの役に立つかもしれない」などと思いながら、漫然と本の紹介文や要約を作るような作業をするのは、はっきり言って無駄である。せいぜい、Qiita のような CGM サイトで、いわゆる「まとめ記事」ばかりを探し求めている無能な技術者の拍手喝采を浴びる「今北産業」の社員になるだけだ。もっとも、「日本」とか呼ばれている文化的後進国では、哲学の古典について似たようなことをやって、早稲田の講師になった仏教の研究者とか、あるいは政府のなんとか委員になった教育学者もいるようだがね。
寧ろ、読んでいるその場で何を書き留めるべきかを考えることにも、note taking の効用というものがある。したがって、そのときの事情とか目的によって書き留めるべき内容が変わるかもしれない。そして、それゆえにノートに取り忘れるということを恐れる人もいたりするようだが、そういうことは気にしなくてもよいのである。なぜなら、第一に、大半の読書した内容は忘れてしまうからだ。したがって、そもそもノートに取り忘れたことがあるかもしれないと心配する理由なんて、実は読んだ後になるとどうでもよくなるのである。第二に、書き留めてはいないが読んだものに何か関連がありそうだという記憶があれば、それだけでノートを取らなくても重要な情報を記憶していることになり、それを理由に再び読めばいいだけだからである。そういう必要が生じたら読み返せばいいのであって、読み返す必要がないようにノートへ全ての内容とか文言を写経のように書き写そうとするのは無駄である。更に都合がいいことに、いまでは電子データで論文や著書を残しておけるから、売っぱらってしまった後になって読み返せなくなるとか、どこかの図書館で借りたり買い直さなくてはいけないという問題も起きにくい。
こう考えると、やはり昔から言われているように、「古典的な業績」と呼ばれている著作物は、そのようにして何度でも繰り返して新しい note taking を必要とするような、色々な脈絡で読んだり解釈できる内容をもっているのだろう。