Scribble at 2023-07-20 09:31:27 Last modified: 2023-07-20 11:08:32
Hacker News で取り上げられていた論説であるが、おおよそ Hacker News で加えられていたコメントと同じく、僕もこの論説の現状認識は間違っていると思うし、著者の処方箋もクレイジーだと思う。
まず第一に、生活言語や母国語の多様性は(何かの理由があって)必要かもしれないが、学術研究の「共通語」も必要であって、それが政治的・文化的・経済的な優劣や力関係という STS 的あるいは左翼的に是非を語りうる経緯があったとしても、結局のところどれか既存の言語に落ち着くほかにないだろうと思う。ラテン語だって、まったく人工の言語というわけではなく、その方言として多くの言語が実際に使われていたのだから、いま英語がドミナントであること自体を良いの悪いのと言ったところで有益な結論は出てこない。
そして第二に、著者らは多国語による submission を許容せよと言うが、それはつまり査読できる人材を狭めるということになって、おそらくはさらにアクセプトの基準が低下すると思う。こんなこと言っては悪いが、トルコ語で書かれた論文をトルコ人だけが査読したり、ヒンズー語で書かれた論文をインド人だけが査読していては、雑誌の品質はどんどん下がるであろう。その言語を知らない他の誰も検証できないからだ。そんなもん、クズの山がアクセプトされるようになるに決まっている。
思うのだけれど、これだけ海外で多くの日本人が英語で生活したり学術研究者としてアメリカの大学の教授にもなっている事例が多くあるというのに、それほど英語で論文を書いたり話すことが由々しき問題なのだろうか。たとえば、よく言われることだが、アメリカの学生は1回の授業で参照する副読本として翌週までに論文を3本ほど、単行本を2冊ほど読むように要求されたりする。これでも分野によっては少ない方だろう(法科なら、この数倍を要求されたりする)。これが留学生にとっては苦痛だと言われたりするらしいが、たぶんそんなことを言っているのは日本人だけだろうと思う。要するに、これは日本の大学までを含めた中等・高等教育が甘すぎるからであって、日本だとたいていの人文系の授業では単行本を1冊だけテキストとして使い、しかも1年もかかって通読するだけの講義すらせずに終わったりすることが多い。専門課程の購読でも、洋書ならともかく翻訳書ですら300ページくらいの単行本を何年もかかって「ていねいに」読むことが購読の意義だとされたりするのだが、僕はかなり怪しいと思っている。実際には、1行ていど読むたびに、「哲学的」だと錯覚している小集団が雑談を続けているだけのことだ。これは、残念ながら僕自身の大学院での実体験からも言える。なんにせよ、文書を(「大量に」と言われたりするが、必要な分量であればむやみに多いわけでもあるまい。1週間に本を数冊読むていどを「大量」などと表現すること自体、日本の教育が甘い証拠だ)読解するという訓練を高校までに殆ど教えられておらず、大学に入ってもほぼ全ての学科で要求も訓練もされていない(しかし学位はもらえる)という甘い環境で学ぶに任せていたうえで「留学にでも行こうか」などと気楽にハーヴァードや Oxbridge へ行く資産家の息子や娘が、しょーもないレベルの英語ができるていどで留学などしても苦労するのは当然だ。
要するに、学問というものは無能に基準を設定してはいけないのである。