Scribble at 2023-06-01 10:37:55 Last modified: 2023-06-01 10:45:49

これはかなり昔、つまり高校時代からぼんやりと感じていることなのだが、「カテゴリー」と称して与えられる分類に体系的で明解な根拠があった試しなんて殆どない。アリストテレスだろうとヒュームだろうと、物事の分類とか体系的と称する区分なんかに、いったいそういう区別を立てる根拠はどこにあるのかとか、どうしてその基準で分けると MECE なのかとか、更には実体(そして仮定された何か)の特性から言えば一つしかないのかもしれないが、言語や認知的な上辺の区別だけで言えば、MECE でありながら区別の仕方が異なるだけの分類体系が複数ないという証明がどこにあるのかとか、そういうことがぜんぜん示されていない。こういうクリシン的な突っ込みに、実は十分に耐えられる「古典」なんて殆どなかったりするのが実情だろう。アメリカでも日本でもクリシンを哲学の「実務」みたいに語る馬鹿が、大学だろうと出版業界だろうと簡単に出てくるのは、或る意味では当たり前のことなのだ。口先だけの疑問や突っ込みなら、それこそ何とか茶みたいな成金の暇人でなくたって中卒でもできる。

もちろん、どれほどの古典であろうと philosophizing している現場報告なんてものではないのだから、そういう根拠をわれわれは推定したり解釈しなくてはいけない場合が多い。けれど、その多くが論理的な関係として導き出される場合には、どうしても「嘘臭い」という問題がある(いや、プロパーというのはそれを分かってて議論するものなのだろう。或る種の官僚でもあり貴族だしな、きみらは)。かといって、それを発生論的にほじくり返すような議論は、日本の社会学者の書くものを読んでいればお分かりのとおり、「ああ、世の中にはそういうことがあるのね」で終わってしまう。三流のジャーナリストがせっせと書いて積み上げているルポのようなものでしかなくなる。

われわれが世界IIIの何かとして合意を形成することが学術研究コミュニティにおける(真理の探究とは別の、建前での)目的なのであれば、そこでは前者が優先されるのも当然だ。そして、前者を選択すると事実の問題ではなくなるため、幾らでも考察や推定や議論を続けていられるという、職業的な安心も少しはあろう(もし宇宙の真理が1秒で分かってしまったなら、人はどうすればよいというのか!)。ところが、どうもこういう建前の議論すら満足に展開されてきたようには思えないのが、いかにも残念な気がする。僕が専門にしていたヒュームの研究にしても、自然的な関係と哲学的な関係という区別のそもそもの根拠は何なのかという議論が満足に展開されているという印象は全くないし、それどころか書いた当人にすら厳密な根拠があってそういう区別を採用したようにも思えないところがある。もちろん、二十代の若造が適当に書き殴ったような、それこそ今ならチラシの裏にでも書いとけ・・・それにしても随分と大量のチラシがいるものだな、みたいな文章に、それほど熱心に解釈学を施しても徒労というものかもしれないが、殆ど同じことを言っていたパスモアですら、熱心に解釈の本を書いたわけだ。

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