Scribble at 2023-05-24 15:23:58 Last modified: 2023-05-24 15:27:49

まったく平凡なアマチュアという立場でありていに言えば、どれほど熱意なり興味があろうと、1本の論文を読むのに5,000円なんてかかるようでは、およそ学術研究論文なんて読んではいられない。しかも、Springer を始めとする既存の学術誌をホストしているサービスでオープン・アクセスになっている論文だけを集めても相当な分量になるのだから、誰かに認めてもらうかどうかという自意識のような話を脇へ置いておくなら、自分自身が必要とする学術研究を自足的に遂行するだけの目的であれば、既にオープン・アクセスのリソースだけで十分な量があると言える。

そもそも、これこれの論文を読んでいないからといって、その人を或る種の「素養」を欠いた人物として排斥したり軽視できるのかというと、もう現代の状況では何が「素養」に当たる論文のクラスターなのか、特定できる人はなかなかいない。特に、哲学以外の分野の文献も当たり前のように読む科学哲学では、そういう論文なり著書の一式を独断で想定したり指定しても、殆ど意味がないであろう。

したがって、論文を読む予備知識なり外国語の能力という点を差し引いても、われわれには「お金」という現実的かつ切実な制約があるのだし、これから哲学あるいは科学哲学の勉強をしようとする方には、あの論文が高くて読めない、あの本はアマゾンで5万円もする・・・なんて悩む必要はないと言いたい。

もちろん、原則として哲学は何かの本を読むかどうかで何かが決まるような営為ではないし、なかんずく長野に書庫専用の別荘を建てられるくらい愚劣な通俗書をばらまいた奴のような、読書量の問題などではないという理由もあるにはある。ただし、何度も言っていることだが、だからといって本を読まなくてもいいとか、身一つで哲学できるなどというのは、単に倒錯した暴論にすぎない。膨大な蔵書などなくてもいいというのは、結果論としてすぐれた業績を残した人にしか指摘できないことであって、勉強したくないだけの暗愚な人間や馬鹿の言い訳になってはいけない。

ともあれ、ぶっちゃけ言って「サバイバルの哲学」なんていう格好だけのフレーズをバラ撒けるていどに恥知らずな人間なら、Library Genesis とかで海賊版の PDF を大量に拾ってきて勉強してもいいんだくらいのことを言ってみたらどうなのか。都内でぬくぬくと「分析哲学」なんて暇潰しをやってる金持ちの道楽息子の成れの果てみたいな連中には、想像もできないことなのだろうけど。

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