Scribble at 2023-05-21 00:30:49 Last modified: 2023-05-23 14:35:10

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実家から懐かしい本を見つけて持ち帰ってきた。しかし、読んだわけではない。お恥ずかしながら、読みたいとは思って30年くらい前に購入したのだけれど、読めていない。そういうわけで、どちらも500ページを超える分量なのだが、こういう本を原書だろうと翻訳だろうと手に取って読もうという人たちを応援したい気持ちはある。才能のあるなしは知らないが、どのみちナンパやマウンティングや自意識だけが動機の人間なら、これらを翻訳で読了するどころか書店で手に取ったりもしないだろうから、こういうものを手に取るだけでもそれなりにまともな人材であろうとは期待できる。

もちろん、僕は本を読むことが哲学することにとって不可欠だとか本質だとか、そういうセンチメンタリズムには与していない。けれど、孤高の天才を気取って本など読まなくてもいいなんて言ってる人間の 99.999% は単なる夜郎自大である。ウィトゲンシュタインが同じことを言っていた? 誰が彼を有能だとか孤高の天才だと「証明」できたというのか。いまで言う発達障害、あるいはおかしな妄想に取りつかれた人間を、ケムブリッジの初心な貴族のこせがれどもが「天才」に仕立て上げただけだという可能性はゼロではあるまい。

そして、こういう分量の本を手に取ると、つねづね感じることがある。よく、学術研究書やアメリカの大学テキストが1,000ページを超える分量だったりする場合に、アマゾンのレビューや書評ブログとかで、とにかく「長すぎる」とか「冗長」とか書くやつがいるんだよね。どうもそういう連中にすれば、世の中の真実を3行でやさしく書き表してくれる元エンジニアとか元ゲーム作家の読書オタクなんかが書くものこそ、最新版の思想を軽やかに、僕たち世界で一つだけの花に教えてくれる教祖様というわけだ。実際、この手の「わかりやすさ」とか「図解」とか数々の短絡的な読み物を信奉する出版編集者とか若者というのは、殆どカルトにハマってる人々と同じように思える。

なんだかんだと取ってつけたような小理屈は言うかもしれないが、しょせん「哲学」とかいうものに興味をもっているボク・ワタシという自己イメージに酔いしれたり、ラノベしか読んでない自称文学少女をナンパしたり、あるいは Twitter でマウント取りたいだけだろうという気がする。だから、30分で読めるなんとかとか、文庫本1冊で哲学が分かるだの哲学史のポイントを掴むだのサバイバルに使えるだの、そういう手軽なマウンティングの道具をすぐに求める。そして、自分たちがバカで無知である事実を無視して「哲学を学んだ人間」という手軽な立場が得られなければ、次にやることと言えば、やれ学者はアウトリーチする社会的責任があるだの、「よい文章」の書き方を学ぶべきだの(確かにそれは言えるが)、文字だらけの文章は低学歴に対する差別や暴力であるだの、理解してもいない口先だけの正義ワードを喚き始める。単に勉強が嫌いなだけのくせにイージーに学者と同じポジションを獲得したいだけの若造や、暇潰しに哲学書(実はクリシン本)を読んでプレゼンや会議に活用したいみたいなサラリーマンや官僚どもに、そもそも哲学する資格なんてねーよ。

"About" のページでは「哲学に正常も異常もない」と書いているが、すぐ後に書いているように、哲学はそれをやるべき状況にある者が(哲学科に在籍していようといなかろうと、あるいは従事している分野や仕事がなんであれ)やるものだ。だからこそ、或る瞬間にヤクザが哲学していることになるような思考をしていても全くおかしくないし、戦場で或る瞬間にロシア兵が哲学していることになるような思考をしていて、それゆえにウクライナ兵から頭を狙撃されてもおかしくないわけである。もちろん、これは露悪的に言っているわけではなく、大学の哲学科の研究室の机の上で行われていることだけが「哲学」であるなどというたわごとを本気で信じているプロパーなんて、まずいないという話をしているだけである。(とはいえ、かつてリチャード・ローティが皮肉交じりに言ったように、分析哲学は大学の教室だけでやってるようなことかもしれないがね。)

もちろん、哲学と呼ばれる営為は本能のようにやるわけではないとしても、かといって君ら都内の暇な学生とかがせっせと親の金で買い漁っている(幼女や女子高生や異世界の女戦士の裸体が表紙に描かれたも同然のレベルとしか言いようがない)通俗書だとか、教科書を読んでやるようなことでもない。

そもそも、どういう分野であろうと学術研究の成果を1,000ページの書籍にまとめること自体が傲慢であり、或る意味では不可避的に不十分さや短絡化を避けられない愚行とすら言いうる。それでも、教育的あるいは社会的な責任の自覚として、一つの必要悪として学術研究者はそういうものを書いて出版しているわけである。本来なら、1,000ページどころか古典をいきなり次々と読んでいくような意欲のある人間だけが大学に入学したり学問を志して、その中から優れた人材を公平に評価して次の世代の研究者や教員として採用する方がいいに決まっているのだ。誰が、単位がとりやすいだの教科書が薄いだの、あるいは教材に坂道アイドルが登場するビデオを使うだのという理由だけで、入学試験に合格したていどの条件しか満たしていない「無能」を喜んで迎えたりするものか。

タイパのことしか頭にない無能のために、「哲学」とやらを3行ていどで表現したとして、その語彙の貧弱さや議論の単純さから言って、それは容易に ChatGPT が大量に無数のパターンを覚え込んで、恐らく数時間で記憶力と、それから既知の予備校的な解法を組み合わせるていどの bounded な応用力しかない東大生や京大生の能力なんて越えてしまうのは、火を見るよりも明らかだろう。1,000ページの本なんて十分でもなければ、そういうものを書くこと自体に何らかの不当な制約や偏見が隠されているのではないかと疑うことすらないような人間が求める「哲学」なんて、もともと人間が数千年の時間をかけてやってきたようなことと何の関係もない、それこそサルにタイプライターを適当にタイプさせたのと同じていどの文字列にすぎないのだ。そして、毎年のようにサルトルの逸話を持ち出してはえんえんとコーヒーカップでやる哲学っぽいお喋りしかできない無能の読み物に5つ星を付けては、やれ現代の古典だの若者のための哲学書だのと、スマホゲームのように次から次へと消費していればいいような小僧が、マルクスだ、カルナップだとキーワードをタイプしていようと、そんなものは ChatGPT の文字列出力と同じである。自分たち自身が ChatGPT と肩を並べるていどの知性しかなくてもいい思考や知識を求めるなんて、自分から institutional racism をわざわざ生み出しているようなものだ。

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