Scribble at 2023-04-03 16:45:57 Last modified: 2023-04-04 15:52:15

MD や PHILSCI.INFO で公開する記事の項目とか資料をまとめたり整理するつもりで、たとえば Microsoft Loop などが使えないかどうか試したりするのだけれど、どうもなぁ・・・つまり、ああしたものに記入すること自体が面倒臭いんだよね。項目の整理とか記憶くらい、この頭脳に置いておくだけで対応できるんじゃないかと思ったりする。大学生の頃に読書カードとか研究用のカードを大量に作ってたりしたんだけど、その大半が全く役に立たなかったという強い印象があるので、なおさらだ。実際、ヒュームの Treatise の翻訳を一段落ずつカードにしていったこともあったけれど、「ヒュームの関係概念」という論文を書くにあたっては、ほぼ役に立っていない。なぜなら、翻訳なんて使わずに Oxford から出てる Selby-Bigge 版を使って考察したり論文を書いたからだ。大槻氏が岩波文庫で出した翻訳は、僕が読んだ1990年代でも40年ほど前のものであり、まだ木曾さんの翻訳は出ていなかったにしても、あれを使うのはいかにも古いし、的確な翻訳であるかどうかも殆ど評価の声が聞かれなかった。そのあと、確か名大の田村先生が神大に来訪されて雑談を交わしていたときにも、翻訳は使わなくてもいいという話だった気がする(「ヒュームの関係概念」で、僕は大槻氏の訳文を参考にはしたが一度も引用していない。田村先生のエピソードは僕がヒュームの論文を書いた後の話だが、いずれにせよ大槻氏の訳文を使っていない理由はいくつかある)。

ともあれ、役に立つかどうかはともかく力任せに大量のカードを作ったり、あるいは項目を brain storming 風に並べまくるというスタイルは、僕にはあまり向いていない気がする。その昔は、「何の意味があるかどうかは分からないが、調べたり学んだりするのがいい」という投機的な勉強とか学習を、ロシアの教育心理学者の学説として推奨してる人物がいたように記憶してて、どうもそういう人たちの主張が気になったり、あるいは一種の「教養主義」みたいなものを闇雲に尊重するようなところがあるのだけれど、果たして僕自身はどうかというと、自分のやりたいようにやってきただけのように思える。まぁ、その結果が博士号も取らずに今どき中退して大学教員にもならずに、セコいベンチャーで部長やりながら、こんなサイトで有名な哲学教員を侮蔑するだけかと言われれば、まぁ確かに世間的な尺度で言えば結果として大したことないのだろうけど、クリシンを授業でやってる方ならお分かりのように、そういう勉強のスタイルや指向と、僕の現在の境遇とは単なる相関関係でしかない。自分で言うのも変だが、僕程度の人間であれば、興味や勉強のリソース配分を集中しようと分散しようと大して結果は(凡庸という意味で)変わらないのではないか。だからこそ、有能の人々の邪魔をしないことが、アマチュアとしての責任でもある。(ちなみに、嫌われ上手のおじさんとか、お勉強君とか、小平の英雄とか、哲学用語の収集家どもを侮蔑することは、別に「有能な人々の」邪魔ではあるまい。)

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