Scribble at 2022-08-17 09:09:08 Last modified: 2022-08-17 09:12:31
Patrick Sibelius, "A Major Failure within Modern Analytic Philosophy," Philosophy of Science, Vol. 60, No. 4 (Dec., 1993), pp.558-567 をざっと眺めたのだが、どうもいまいちな内容だった。情報セキュリティで言えば、攻撃ベクターが従来と全く同じで、攻撃の精度や強度が足りないと言ってるだけのように思える。科学哲学と分析哲学を区別して論じるにしても、その重大なポイントは統辞論的アプローチや意味論的アプローチをどう使うかという問題ではない(というか、それすら論点として古すぎるのだが、よく考えたら30年前の論文だから仕方ないのだろう)。単に個々の科学史のエピソードを考慮するかどうかなんていう、こう言っては失礼だが矮小・些末・局所的な話でもないのである。そういう、通時的・共時的という観点しかもってないからこそ偏っているし、誰かの理解不足や偏見にすぎない theme-setting に集団心理か何かで陥っているのだ。
もちろん、或る脈絡ではこれを「アメリカらしい」楽観的な進歩主義として評価できる。誰かの翻訳書に付けられた帯(デイヴィッドソンだったか)にも書かれていたフレーズのように、まさにアメリカの軽薄な哲学は「ブルドーザー」のような力強さと、いまで言う「ネットいなご」のように集中して大勢が一つの課題に取り組み、そして日本では殆ど実例がない〈実績〉を残そうという、なかば宗教的な熱情とも言いうる意欲なりコミットメントが感じられる(もちろん、まじめに成果を上げないと grant を受けられないという事情もあろう)。これは、確かに一方では制度的な大宗教や慣習とのかかわり、そして他方では下手なことを言うと拳銃を背後から突き付けられるという〈お国柄〉とのかかわりにもよるのだろうが、何にせよそこで生きて哲学をエンゲージしている人々としての、いかにも日本人的だから皮肉な言い方だが「矜持」とすら言える。