Scribble at 2022-07-29 16:35:53 Last modified: 2022-07-29 16:46:10

哲学という営みは、本質的に教育とか読書とは関係がないところで、それをやろうとする欲求や動機や目的や熱意が生じるものである。しかし、それを「波止場の哲学者」だの「在野」だのという自意識で既得権やステレオタイプにしようとした時点で、そいつは哲学をやる能力がないと自分で証明しているようなものである。僕がアマチュアでありながらも「独立研究者」だの在野だのと自意識遊びをしないのは、そんなアイデンティティなど哲学をやる動機や能力とは関係がないからだ。よって、東大を出たとか京大の教授だとか英語がペラペラだとか、その手の下らない事実も関係がないのである。僕がプロパーも素人もアマチュアも無差別に切って捨てるのは、そいつらがひとえに〈無能〉だからであり、彼らのアイデンティティや立場や身分や自意識なんて関係がないのである。哲学は、有能な人間だけのものではない。しかし、少なくとも無能な人間には無関係なものなのだ。

2022年07月29日に初出の投稿

MD で書いた話だが、こちらと関連がある話題も含まれているので、転載しておく。

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