Scribble at 2022-04-07 11:16:06 Last modified: 2022-04-07 16:59:36

多くの人々が「哲学」、それは結局のところ〈哲学すること〉以外ではありえないわけだが、これを色々な事情があって誤解していると思えるのは、「哲学」という何か壮大で難解な教え、あまねく響き渡る重々しい声のようなものだと理解してしまいがちだからだ。それは、〈教える〉状況において印象が際立つ。しかし、僕が思うには、「哲学」などという堅固な体系とかご高説などない。〈哲学すること〉の欠くべからざる特徴の一つは、〈教わる〉ことにある。しかし、早くも古代ギリシアの頃から、その姿勢なりアプローチはソクラテスが非難されたように、冷やかしのような態度として歪曲されてきた。大阪弁で言えば「いちびり」というわけである。もちろん場合によってはそうでもあろう。しかし、これまたもちろん処世術やパフォーマンスとして僕もバカや無能なプロパーや物書きを「いちびって」みてはいるが、そんなことが哲学的に言って有意義な、人類の叡智を 1mm でも進展させる役に立つなどとは思っていない。馬鹿に向かって「お前は無能だ」と言ったところで、それは空気があるところで息を吸うような振る舞いでしかない。

必ずしも賛同することばかりではないにしても、僕が Churchlands やデネットらを〈哲学すること〉を遂行している、或る意味ではオーソドックスな哲学者だと思えるのも、これが理由だ。そして、哲学の古典の読書感想文ばかり書いて数学の勉強すらしない人々を全く哲学しているとは思えないのも、同じ理由である。こう書くと即座に取り違える人がいそうなので注釈しておくが、僕は大学教員なら学部レベルの数学くらい勉強したらどうかと書いているからといって、哲学者としてテグマークのような mathematical universe というアイデアを支持しているわけではないということだ。支持しないというスタンスを自分自身で正確に自分で納得するためにも、初等レベルの数学くらいは勉強しておいたらいいというだけにすぎない。或ることを学ぶからといって、その知識やアプローチにコミットすることになるとは限らない。そんなことは、プラトンやカントやデリダを学びながらも彼らのエピゴーネンと呼ばれることには抵抗して、常に自分たちのヒーローを色々な話題で相対化し、特定の学説とか人物に〈コミットしない〉ことが「哲学者」のスタンスであるかのように錯覚している日本の哲学プロパーであれば、最初からよくご承知のはずであろう。

要するに、多くの人々が「哲学者」なるものに反感や敵愾心を抱くのは、そういうお化けが世界や宇宙や人生や美について偉そうに何事かを〈教えようとする〉からだと思い込むからであろう。しかし、実際のところ「哲学者」というものは古代から現代に至るまで、そんなことをするためにいるわけではない。何といっても彼女らがものごとを学んだり考えたり知ろうとするのは、他人にご高説を垂れるためでもなければ東大教授になるためでもないのだ。それらは、言ってみればただの結果にすぎまい。しかし、何度か書いているように学術研究は本質的に分業であるから、軽視したり冷笑していいわけでもない。

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