Scribble at 2022-03-05 09:28:21 Last modified: 2022-03-05 09:52:37
よく仏教の信者で、「仏教は思想でも哲学でも宗教でもない」と豪語する人がいて、そういう人がアマゾンとかでレビューを書いてるとすぐに分かる。世の中のあらゆる知恵とか知識とか知見について、「ああそうですか」というコメントしか書けなくなるからだ。
そういう人たちは、要するに自分たちでもよく口にするように、文字通りの意味で「人でなし」である。人の人生とか生きるということについての執着がない。それゆえ苦しみから、もはや逃れるという意識すらなくなるわけだ。僕らから見れば、いてもいなくても関係のない存在であって、「人々」と認識する必要すらない。しかしそのくせ、毎年のようにお布施をかき集めて回っているし、アマゾンで書評なぞ書く暇や本を山ほど買う金は腐るほどあるらしいし、そう願う特定の欲求だけは旺盛らしい。仏教者というものは、税制でも優遇されることに熱心だしな。もちろん、「仏教は思想でも哲学でも宗教でもない」というフレーズに、既存の哲学や社会思想や宗教に対する一定の(そして妥当に思える)相対化や批評が含まれていることは確かだろう。しかし、哲学者と〈哲学を研究・勉強していると自称する連中〉とには犬と犬の尻尾よりも大きな違いがあるのと同じく、そういうフレーズの妥当性を斟酌するわれわれと同じフレーズを口にするだけの連中とのあいだにも(犬と犬の尻尾に比べてどのていどかは知らないが、或る程度の)違いがあろう。
僕は自分自身を尊んでいるし(まぁ当サイトの文章から、僕が逃げも隠れもしない典型的すぎて笑ってしまうようなナルシシストであることはご承知であろう)、自分自身が生きるということに価値を認めている(という認知能力がヒト、なかんずく僕という個体にあること自体に価値は認めていない。こんなことはただの進化や発生論的な結果にすぎないからだ)。よって、3年ほど前は当家の宗派にかかわる仏教の著作物を色々と眺めてみたのだが、悟りだろうとマインドフルだろうと、要するに〈意図的に精神崩壊させる方法〉だとしか思えなかった。或る特定の生理とか欲求とか話題についてだけ、何かのトリガーをつくって判断を無自覚・無意識に停止させて意に介さない、つまり簡単に言えば究極の「スルー力」を養うというわけだ。言い方を替えれば、語弊はあろうが自力でアスペルガー症候群になるようなものである(これは一概に「悪い」意味だとは限らない。実際、アメリカの IT 企業で瞑想とかマインドフルネスや zen が唱道されているのも、ヒトを或る種のビジネス・ロボットとして事の善悪に関係ない意思決定の部品にするためだとも考えられる。結局、ビジネスにおいて最も脆弱でリスキーな部品は、売り手の側だろうと買い手の側だろうとヒトなのだ)。よって、五感については昔から禅で言われるように、心頭を滅却すればなんとやらということになるし、他の宗派でも似たような無頓着を心掛けるというわけなのだろう。
これは、当サイトで公表している thanatophobia についての論説でも触れているように、自分自身の自覚とか認知とか意識の〈ステージ〉をこしらえるという、実は或るていど認知能力が発達したうえでの ready-made な思考に依存している。つまり滅却だの解脱だの、何事か為すべき地点にそもそも立ってしまっているという前提があっての話なのだ。そして、ヒトに限らずたいていの生物種は、生理的な仕組みから言って、気の毒だがあったことをなかったことにはできない。登ってしまった(あるいは進んでしまった)後で、梯子を蹴り外したり橋を落としても、いまいる場所を〈出発地点〉であるかのように装うことはできないのだ。よって、「思想でも哲学でも宗教でもない」から何だというのかという問いには、何をどうするのであれ「自己欺瞞」だと答える他にないわけである。