Scribble at 2022-02-15 10:23:56 Last modified: 2022-02-16 12:21:04
その昔、関西大学の博士課程前期課程(修士課程)に在籍していた頃のことだが、江坂という吹田市の町で補習塾の先生をやっていたことがある。中学の理科が担当で、教材を選んだり自分で作成しているときには、教える範囲や正確さの調整に難儀したことを覚えている。出来合いの教材を使わずに自分で教材を作っている(しかも指導要綱などの基準も参考にしないが、あくまでも補習塾なので、周辺の学区、関西では「校区」というが、そういう区域で採用されている教科書や学校での進度は生徒から聞いて参考にする)場合には、何をどう教えるかは自分で責任をもって決めなくてはいけない。しかし、たまに授業で「中学の理科だと、ここまでを覚えておけばいい」とか、やや手加減しているかのような発言をすると、たいていは生徒の顰蹙を買った。だからといって、高校や大学で教えられる化学や物理の話をしようにも、それを正確に伝えるための数学という知識が中学生にないため、そういう状況で更に詳しいことを知りたい人には、中学を出てからどういう知識が必要になるかという見通しを与えるくらいで留めておくのが限度だったと思う。
僕が勤めていたのは進学塾ではなかったが、補習塾に来る生徒でも知らないことに興味をもつという好奇心はあるのだ。ただし、それを納得できるまで正確かつ十分に理解するための予備知識や、それを身に着けるために必要な粘り強さ(問題集を何冊か解いてみるとか)がないという点に、やはりどうしても「できる生徒」との差ができる。はっきり言うと、僕らのような進学校に入る生徒とそうでない生徒に「センス」とか「才能」の差は大してないし、そんなものの差は外見上だけだと分からず、そしてそういうことは出身校の違いよりも個人差の方が大きい。それよりも、自分が必要だと思うことをつべこべ議論せずに黙々と何時間でもできるかどうかという、本当に基礎的なところ(古臭い言い方なら、それを続けることに不安を感じない「胆力」だろうか)に大きな差があると思う。要するに、「やるなら、いまでしょ!」をわざわざ予備校の講師に言われなくてもやれるかどうかが重要なのだ。
さて、ここで僕の昔話を続ける意図はない。ここで取り上げたいのは、いわゆる「スパイラル方式」と呼ばれている指導方法だ。調べてみると、既存の指導方法や教育理論と同じく、殆どこの言葉を口にしている人物の数だけ定義や実例があるかと思えるほど、雑で、実証的な根拠がまるでない非科学的な内容も含まれており、正直なところ相変わらず教育学というのは、塾のバイト学生が反省会でお喋りしてるレベルの話を東大で講義しているようなものだという印象がある。
なんにせよ、スパイラル方式の指導方法を大別すると、(1) 反復練習モデル、(2) 練度の向上モデル、(3) 厳密さの進展モデル、という三つになろう。(1) と (2) は、教えている時点での知識やスキルをしっかり身に着けるためのモデルだが、(3) は異なる段階、つまり初等・中等・高等教育という段階を経て理解や習熟度が進展したり増していくというモデルである。
(1) は、要するに授業だけでなく復習を活用して九九の計算ができるようになるといった目標を持っていて、これは従来からある指導方法だ。何も「スパイラル」などと特別なことをやっているかのような自意識をもつ必要はない。江戸時代の寺子屋でもやっていたようなことだろう。
(2) は、恐らく一つの単元についても基礎から俗に言う「応用力」なるものを養うために想定されている指導方法だが、これを語っている事例を見ても特に感心するようなことをしているわけではない。数学を例として取り上げると、つまりは過去の膨大な数の問題を解くために利用された、他の単元で教えられる定理や概念を組み合わせるという、昔から「融合問題」とか「総合問題」などと呼ばれている問題を解くための組み合わせ方を解法として教えているだけの話だ。
そして (3) は、要するに初等教育から中等教育、そして中等教育から高等教育へと、どんどん難しくなっていくという説明内容の「段階」とか「進度」を想定する。よって、中学だと原子核の内部構造は教えず、高校になってやっと陽子と中性子が登場し、大学では天体モデルを超えて議論するといった事例が典型であろう。実際問題として、中学の教員の多くは大学の学部レベルの物理を理解する知識がなかったりするため、これは生徒に合わせるというよりも、既に実情としては教員の知識や能力に合わせた、或る種の「福祉政策」と呼んだ方がいいようなものに成り果てていると思う。僕の母校は、それなりに大阪では進学校の一つとして知られている筈だが、高校の教員ですら、たとえば中学時代の僕が(僕が専門に勉強していた考古学どころか)歴史の質問をしても殆ど答えられなかった(母校は高校の職員室が中学の職員室の上階にあったので、中学の生徒が高校の教員にも質問できた)。
もちろん、これらのスパイラル方式にも一定の効用があるのだろう。四則演算すら習っていない小学生に微分方程式の話を(通俗本によくある雑なイメージの話ではなく)数学としておもむろに教えるなどということは無謀であろうし、そんなことはすべきでもない。ものを書く人間や学校で教える人間というものは、10歳でハーヴァードの教授になるような人材を標準的な相手と想定するべきではないのだ。逆に、そんな秀才を相手にものを書いたり教える最も効果的な方法は、当人と直に接することであろう。どこにいるか分からない、誰も当人の才能に気づいていない、まだ見ぬ天才が自分の本を読んで何かに気づいたり学習意欲を持ってくれるかもしれないなどという、天才発掘物語を夢想するのも結構だが、そんな自意識だけで紙や労力の浪費を続ける文明というものは、企業の部長という立場から言わせてもらえば〈事業継続性がない〉と評価できる。
教科書や通俗本を何やら高みから書いているつもりだろうが、書いている当人がまさしく凡庸で無能な人々だと言わざるをえない、学者としてその自覚もない未熟で気の毒な皆様に申し上げるが、専門書でない限り、書籍というものは一部の有能な人材だけが理解できればいいという想定で書いたり出版するものではない。才能ある生徒だけが結果的に理解できたらそれでいいなどという態度で出版されるような書籍は、事実上の私信でしかなく、公共の市場に発行するようなものではない。どれほど高尚な内容が書かれていても、社会科学的なスケールで言えばコピペ歴史学者が書いた日本史や自称元皇族が書く憲法論議などと同じく、ノイズやゴミとしか言いようがない。
ともあれ、こうしたスパイラル方式を前提に教育内容や過程を設計するにあたっては、(1) から (3) までどのモデルを採用するのであれ、決まりきった年代、あるいは学習に要する一定の期間が対応するかのような思い込みは差別的な教育に直結する(20歳のディスクレシアや高齢者の人々にも、高校の数学を習う権利や資格はある)という大前提をわきまえておくことが望ましい。また、そういう生理的・医学的なハンディキャップがない場合でも、僕のように古典で論じられている段落一つを読むだけで一週間くらいは色々な論点や問いを自分で展開したり組み合わせて考えようとする読者もいる。なんにしても、一つの段階を1年で読み、記憶したり、勉強を終えるべきとか終える筈という前提で書かれなくてもよいのだ。
そしてさらに、当サイトでは何度も繰り返して強調していることなのだが、「スパイラル」という図像としての印象に引きずられて、そういう教え方が問答無用に最善の方法だと思い込んでいないかどうかも反省するべきだろう。グルグルと軌跡を描きながら〈上昇していく〉イメージは、あくまでも理想的な状況を仮定した結果にすぎない。そういう硬いレールのようなものがあって、生徒をそのレールへ乗せられるかどうかが教え方の要点であるかのように錯覚していないかどうかも、教えたりものを書く側の立場として、あらかじめ検討しておくものだろう(つまり、スパイラルを描く軌道に乗せられたら、後は意欲ある生徒が自ら学ぶ筈だという酷い錯覚をしている教員が意外と多いのだ)。