Scribble at 2021-07-31 11:21:19 Last modified: 2021-07-31 11:25:25

英語について師と思っている二人の「マツモト」(松本享、松本道弘)が、それぞれの著書で速読や多読を勧めているのは、もちろんそれらとセットにして成果も数多く出すべきだという趣旨からである。

しばしば、洋書のレビューで見かけるコメントなのだが、TOEIC が何点の自分は読了するのに何時間かかったという個人の経験を、書物の評価において基礎となる事実であるかのように扱う人がいる。しかし、速く読めるに越したことはないが、それには自ずと認知能力や生理学から言って限界があるし、本を読む最大の目的は〈一定時間に達成できる情報処理の量〉ではなく、寧ろそこから出てくる成果であり言動であろう。アメリカの大学生と同じく1日に単行本を何冊も読んでみたところで、その成果がなくては、情報で膨れるだけ膨れたまま空を漂う風船でしかない。

一週間に一冊しか読めなくても成果を出している人間は、それに応じて評価を受ける(もちろん「成果を出している」からといって称賛に値する成果とは限らない。毎週一人ずつ高齢者を騙してクズみたいな商品やサービスを買わせていても「成果」だ。もっとも、特定の集団ではそういう成果でも称賛はされるのだろう)。しかし、毎日のように洋書を数冊ずつ読んでいても、1年に論文を1本すら accept されない研究者は、やはり僕の基準で言えば〈超〉のつく無能としか言えない。もし哲学や人文・社会系の学問において、1年という固定されたスパンで成果を求めるのは不合理だというなら、逆に全く同じ〈合理性〉を盾にして、成果が出るまでは給与を支払わないと言われても文句は言えまい。(たぶん、ここまで来て更に反論しようと思ったときに、初めて自分たちが大学「教員」であると自覚する人がいるのかもしれない。)

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