Scribble at 2021-04-10 10:30:40 Last modified: unmodified

さきほど MarkupDancing にグレゴリオ聖歌の話を書いたのだが、こちらには別の脈絡でグレゴリオ聖歌に関わる話を書いておきたい。以前も確か書いたと思うので繰り返しになると思うけれど、僕はいわゆる「科学革命」とか、それに対比して語られる〈中世の宗教的な抑圧〉という観念を信じていない。宗教的な抑圧なんてものは権威の一つとして、それこそ自由に認められているならなおさら、時代の後先に関わりなくあるものだ。そして、これもしばしば言われることだが、中世の経緯があったからこそ近代なり自然科学の勃興があったわけだし、その宗教的な抑圧がなかったらニュートンやアインシュタインが400年ほど早く生まれていて、Facebook や LINE が17世紀にローンチしており、そして2021年には(多くのバカが待ち焦がれるように)シンギュラリティで不老不死が達成されていた筈なのだろうか。中世の宗教が早く衰退しても、現代の宗教(カーゴ・カルト)であるシンギュラリティに至るだけだとすれば、人類の歴史など大局的には笑止と言う他にない。

ということで、中世は科学哲学のプロパーとしても真面目に学ぶべき時代である。資料が少ないという事情で、例外的にコペルニクスなどに言及するだけで一足飛びにアリストテレスからニュートンへ話を移してしまう科学史や科学哲学の教科書は多いのだが、そんなものを書くからたいていの人は概論や概説書というものを読む気になれないのだ。後知恵による偏見や現状肯定のプロパガンダだけなら、わざわざプロパーが手掛ける必要などないのである。教科書を読んだていどの WELQ ライター風情で十分だ。

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